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タグ:詩小説 ( 347 ) タグの人気記事

きのせい

庭師の人が
きの薬をぬっていた
太い枝を切り落とされた紅葉の木に
傷はことのほか大きく
薬の色もいよいよ濃くなって
樹血の滲んだようなどすぐろさ

きのかさぶたの下にある
傷をのみでほじくり返して
きの幹に穴を穿つ
その穴を年輪を作る速度で
なんか月もなんねんもかけて
塞いでいくのだ

最初から何も
なかったような
あったような
きのせいだと
幻肢痛を撫でさすりながら
口をすぼめてみせるような






by akikomichi | 2019-12-08 01:30 | 詩小説 | Comments(0)

夢をみとった

おばあちゃんが
ゆくえしれずになった
もう向こうへ行ってしまったかもしれない寒さの中
靴と鎌を見つけたしょうぼうだんいんさんが
目をつむったままのおばあちゃんを見つけた
おばあちゃんは目覚めたように
ゆずを取りに山に入った
防寒服ばきとったけ寒くなかったと
家に帰った夢をみとった
といった

アフガニスタンで井戸をほっとった人が
亡くなった
彼らの肉体に
銃弾で掘られた穴から
血を汲み取ることはなく
生贄になった
死に追いやったものは
死にものぐるうだろう
井戸を掘る夢をみとった人の影に怯えながら
干からびた魂のまま
夢も見ずに
ものぐるうだろう





by akikomichi | 2019-12-06 00:14 | 詩小説 | Comments(0)

新しい人々に

新しい家族が増えるこの師走
新しい人が生まれるような
新しい望みが溢れ
新しい人々に幸あれ

by akikomichi | 2019-12-01 23:11 | 詩小説 | Comments(0)

アートの森

アートの森に行ってきた。

写真家の石川直樹さんの写真を拝見した。

ラジオで話をしているのをお聞きし、写真も拝見してみたいと思っていたところであった。
文化人類学的見地もさることながら、そこにしかたちあらわれないものを訪ね歩いて、見たままを写し込んだ残像のような、映像世界。

命を張って登る白い雪山の空の世界かと思えば、命を向こうから運んくるような人や植物を産み育めるあたたまる気の世界が極をなしている。

その間を漂うのが人なのだとばかりに。

山から海までの空の間を、わたりあるく写真。

体と息遣いがあって初めて像を結んだ映像。

そこに立ち現れてくるのを待っているのは、時の方なのだと、その瞬間が命なのだとでもいうような。


蔵書の展示もあり、学生時代に読んだダイアン・アッバスやレヴィ・ストロースがあり、彼をうごかしたであろう背景が、本にも見え隠れして、殊の外、面白かった。


外の常設展示も、森に溶け込んで、いつか遺跡のようになっていくのを企んでいるようで、原初の森との調和をめざしたものと、原色の個性そのものの人造物とのコントラスト、というより対極感が、際立っていた。

by akikomichi | 2019-11-24 22:19 | 詩小説 | Comments(0)

「秋月の秋」

秋月の秋が紅く滲むように深まってきた。

秋祭りの最中、人が行き交い、武家屋敷の茅葺に、茅葺の武家屋敷に、足を運んでくださる。

その中で、懸命に屋根を葺く。

一振り一振り、懸命に、気を入れながら、両手付きで、つきながら。

秋の風の吹き抜ける屋根の上、もう直ぐ棟までのところになってきた。

今年の秋は殊の外、美しく、深々と紅く滲みゆく。





by akikomichi | 2019-11-24 21:42 | 詩小説 | Comments(0)

秋月の武家屋敷と民家

秋月の武家屋敷久野邸のふきかえの途中である。

解体がようやく終わり、これから瓦屋さんが入り、その後、我々の下地の行程に入る。

庭の柿の実やミョウガをいただき、秋を感じ始めた最中、台風がやってきたが、すやねも邸のやねも無事であったのが何よりであった。

その一方で、久留米にあるとある民家のやねの隅が台風の影響をもろに受けたということで補修工事を行う。

おたくの敷地内にある倉庫のトタンやねが吹き飛んだものの、人に当たることなく道の上に落ちたのが不幸中の幸いであった。

二日かけて、本宅の杉皮を丁寧に積み上げていき、補修も無事終わった。

台風の影響があったところの修復も大切な屋根を守る仕事である。

歴史を感じながら、その家に住まう場所として息づいている魂のようなものを肌で感じられるこの仕事が本当に好きである。

そこに住まう方々がまた、素敵な方々ばかりで、心がほっこりしてきて、私の奥底から、何かが変わってきている気がしている。

誠にありがたいことである。

by akikomichi | 2019-09-27 22:28 | 詩小説 | Comments(0)

三浦梅園の古民家

三浦梅園の古民家に行った。

梅園の家の土間が殊の外いいと先輩から教えてもらったからである。

確かにいい土間であった。

おくどさんも毎日のように火を入れているようで、暖かかった。

お台所は銅で流し台を覆い、その下は木造りであった。

私の手に入れた古民家では、モルタルで流しを作ることを考えているが、風呂もモルタルにして水回りを統一感を出していこうと考えているところで、熱伝導や保温にはあまり向かないのではないかと先輩に指摘されて、銅で覆うことも、視野に入れてみようと思われた。おくどさんと一体化した風呂を作ってみたいのだが、それも、いろいろ形を考え考え、出来うる限り、実現可能な形に持っていきたい。

当然のごとく、風呂場は、仕切りが曖昧になるであろうから、目隠し程度に竹をあしらってみたいと、想像的創造を練りこんでいる最中である。

楽しみは、じっくりと。

梅園という名前からにじみ出たような、壁の色が薄梅色で、なかなかいい塩梅であった。。壁を色で楽しむというのもオツなものである。

梅園は医者の家に生まれ科学者のようで、哲学者のようで、詩人でもあったようであるが、花を知るには、本で読むより、お花畑に行け。というようなことを言っていたという。

その心意気をも、家に表現してみたいものである。

手心を加えつつ。


私の好きな分析心理学の開拓者であるユングは、曼陀羅や東洋思想を無意識領域の道しるべのようにしたり、シンクロニシティの概念や夢の分析などを自分の体験から作り上げていったが、その晩年には、石の家を自分で作っていったと言われている。

私も同じように、杉皮葺の家を自分の手で、思う存分、愛デンティティの総仕上げのような心持ちで作っていきたいものである。



by akikomichi | 2019-08-28 10:58 | 詩小説 | Comments(0)

古民家再生

古民家再生。を試みつづけている。

自分なりの。

仕事でももちろん。

小国と九重の古民家も補修させていただいた。

小国は、北里柴三郎の記念館の近く、ぬる湯温泉近くの古民家であった。

土間にあるおくどさんの火を灯し続けているお宅でもあり、すすが屋根までしみていて、屋根にとっては、いい塩梅になっているようであった。

屋根だけでなく、おたくの隅々に意匠を凝らしており、昔の職人さんの心意気を感じさせていただいた。

九重の古民家においては、ご自分で材料を揃えたり、「てご」をされたりして、家主さん参加型の補修であった。

もともと農業をされている方なので、自然と体が動くようで、屋根にかかる木の枝をバッサバッサと切り落としたりもお手の物で心強いことであった。

昔の方々は自分の仕事として、屋根を葺いていたので、その延長線上にある、身近なことであると、改めて思わせていただける体験であった。


実は、私も、あの蛍の舞う道の近くの杉皮葺の家を譲っていただけることになり、手に入れることができ、喜びもひとしおなのであるが、偶然のことであったが、九重の古民家の家主さんの奥様のご親戚で、ゆかりのある古民家であったと奥様からお聞きし、この偶然は、必然であったようで、こうやって、緩やかに、しかし確かにつながっていく、見えないけれど、見えてくるご縁に導かれているようで、いい出会いを続けられる喜びは、このままずっと続いていくであろうことを予感している。

まずは、土台からやり直していくつもりである。

自分の手で土台から手がける初めての、何ものにも変えられない貴重な体験なのである。

自分の出来うる限りを全て注ぎ込んで行きたい。

そこで得られる技も形も見えるところも見えないところも全て、私の宝物である。

by akikomichi | 2019-08-28 09:35 | 詩小説 | Comments(2)

宗像の亀の尾酒造さん

宗像の亀の尾酒造さんの補修を行なっている。

宗像で暮らしていたこともあり、まさか自分の故郷と言える場所で、茅葺をふけるようになるとは思ってもいなかったので、嬉しさもひとしおである。

軒から、屋根の半分くらいまでの茅を剥いで、葺き上げていき、それから半分等は差し補修をしていったが、雨の影響を受けつつも、明日で終わるまでのところまでようやくやって来た。


今日もおばあちゃまが始まりと終わりころにやってきてご挨拶しにきてくださった。

おばあちゃまはいつも終わりころになるとやってきて屋根をじいっと見ている。

亡くなったおじいちゃまの思いと一緒に、眺めているようで。
いい屋根になるように、我々と助っ人のお二人とともに、自分たちの出来うる限りの仕事をさせていただいたつもりである。

おじいちゃまの丹精込めて作った酒とそのお酒を育んでいた屋根が出来上がって、亡くなったおじいちゃまも嬉しがってくださるように。



おじいちゃんの魂のようなものが注がれたであろう亀の尾さんのお酒は仕事が終わってじっくり味わいたいところであるが、先日、酒粕を有効利用して奈良漬を作られているのを手に入れて、いただいた。

お酒の香りが染み付いて、酔いが回ってしまうようであったが、今までいただいた奈良漬とは違う顔の見える奈良漬を頂ける幸せをかみしめていた。

ものを作ること、顔の見える良いものを作ること、いつまでも続いて欲しいものを作ること。の幸せをかみしめて。




by akikomichi | 2019-08-25 23:42 | 詩小説 | Comments(0)

「さくら」

を読んだ。西加奈子さんの。

この「さくら」に出てくるさくらはある家族が飼っている犬である。

ところどころ、「さくら」を忍ばせ、物語は犬と散歩をするようにゆっくりと進んでいく。

今までうまく回っていたと思われた日常が、妹が愛するあまり兄に送られてくる手紙を隠すことから、ちょっとずつ、狂っていき、愛されすぎた兄は首をつって死に果てる。

さくらは家族ではあるけれど、見世物を盛り立てる観客としての「さくら」でもあり、さくらんの一歩手前でもあるような、小さな小さな愛のかたまりのようで咲いては散ったさくらのようで儚い想いのようで。


西加奈子さんとは、おそらく同世代であると思われたが、読み進むにつれて、同時代に、あのイランイラク戦争を体験したのではないかと思わせた、喪失感の物語に、心がヒリヒリとしてきた。

私は、小学生の頃、父親の仕事の関係で、中近東のイランに4、5年住んでいたのだが、西加奈子さんもまたイランに住んでいたことがあるということをどこかでお聞きし、きっと、同じような死に「ものぐるい」の思いをし、同じような時を過ごしていたに違いないと思われたのだ。

日常が、ガラリと変わって非日常と思われた爆撃も、いつの間にか、慣れ果てて、それが日常になっていく様を見たような。

(私の場合は空からやってくる、無差別に殺しにやってくる悪意に満ちた)狂っている世界であっても、(空をゆく白い雲のようなそのまんまの)狂っていないものを必死に感じていようとするような日々を過ごしたのではないか。という確信のようなもの。

なぜ、そのような確信のようなものを持ったのかというと、在イラン日本人学校に西先生というペルシャ語を教えに来られていた日本人女性の先生の面影を、「さくら」に出てくる家族の、母親に見たからでもある。

違っていたら恐縮であるが、ご本人にいつか確認してみたいと思いつつ、もしそうであるならば、いつか、その当時の話もできることならしてみたいと思われた。

同じような思いをするものがいるという、今まで、家族のもの以外には、誰とも共有することができなかった、多感な頃の、爆撃体験を語り合うことができるかもしれないという、一人ではないという、ささやかな安心感のようなものを、初めて、同世代で感じることができるのかもしれないという期待感を持ちつつ、自分の中で失われた時や思いをどう取り戻していきたいのかが、物語をかかずにおれないものたちの肝、あるいは宿命のように思えて、だからこそ死ぬまで書き続けるのだろうと、思わずにはおれなかった。



by akikomichi | 2019-07-11 22:51 | 詩小説 | Comments(0)