「すくらっち」

素のくらっちさんのことを「すくらっち」ということにした。

くらっちさんとは、詩のボクシング福岡実行委員会でご一緒した倉地久美夫さんのことであるが、この頃ご無沙汰していたが、たまたま歌を聞く機会があり、また、すくらっちさんを拝聴することとあいなった。

どこにもない音を、うたを聴かせてくれるような、すくらっちの音の世界に、どっぷりとつかりきった。

「スーパー千歳」の完成度もさることながら、あるばむ「いいえ、とんでもございません」も、またまたご謙遜をとも言うべき絶妙味で、味噌がいっぱいで、みみが満たされ、しけがこようが、よなかにたたみやさんがこようが、異界にまよいこもうが、しにがみがせまりこようが、どうにでもなれというような、心持ちになれるようなのであった。

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by akikomichi | 2018-07-15 21:30 | 詩小説 | Comments(0)

「漆喰の白を」

漆喰の白い壁を塗った。

左官の先輩が講師をしていたお家の壁を塗ったのだ。

ボランティアの方々も大勢おられて、その中の山口さんという方が、

左官って、左から塗るから左官っていうんだよ。

と、教えてくださった。

灰色の壁が、一度塗り、二度塗り、三度塗りして白くなっていく。

空気が入らないように、丁寧に、丁寧に塗り上げていく。

白く塗りつぶされていく壁に、息を吐きながら、一気に塗り上げていく。

隅もマンボウコテ?を使って塗り上げていく。

先輩の手は、勝手に動く動物のしなやかないきいきとした動きで、ぎこちない我々の手の動きとは明らかに違うのだった。

漆喰の白がコテにこびりつかないようにするのが、うまい職人の技でもあるようで、手にまで漆喰の白を塗りこんでいる私は、まだまだ初心者であった。



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by akikomichi | 2018-07-15 21:18 | 詩小説 | Comments(0)

「梅の実と種と」

 落ちた梅を拾って、ざるそば一人前のザル二つほどの量を干していたら、いつの間にか、全て種になっていた。

 落ちた時にはついていた虫に食べられたのかもしれないし、その虫もろとも梅の実を小鳥が食べてしまったのかもしれない。

 乾いた梅の種は梅干よりもなお、干されっ放しで、カラカラに乾いていた。

 梅雨になったというのに、干からびたまま、そこに転がっていた。

 私は、干からびた梅の種をまた拾い集めて、山に埋めようと思った。

 焼いた骨の、それも梅の亡骸の喉仏を拾うように、丁寧に拾っていった。

 いつかはこうやって、種のような骨になっていくのだと思いながら、色だけがどす赤く生々しい喉ちんこのようだなどと思いながら、丁寧に拾っていった。


 今度は、仕事の合間に、作業場にある、木についたままの雨に濡れていた大きな梅の実を2キロほど、丸くて黒い網で虫を避けることができるザルを山を下って手に入れてきて、雨なのにベランダに出した。

 不完全な干され方の梅の実は、生乾きの部屋干しよりもなお湿り気を帯びて、そこにあった。
これから、何を作ろうかと思いを馳せていると。

 ふうっと。ここに移住してくる前のこと。梅酒を作ったことを思い出した。

 移住の世話をしてくれた役所の方が、日田で農家民泊を企画されて、応募も多かったが、たまたまキャンセルが出て、参加することができた時に、皆で作ったものだ。

 まさか、すぐに移住が決まり、なおかつ好きな茅葺に携われるとは思ってもいなかったので、ご縁というものは、そうやって、繋がっていくものだと思わずにはおれなかった。

 この目の前にある、大きな梅の実は、私の青くさい孤独な希望のようで、まだ熟れもせず、頑なに、そこにあるがままであった。

 今度は梅の実で、日田に来てできた友人が教えてくれた梅味噌を作ってみようと思った。

 梅の上に砂糖を、砂糖の上に味噌を、味噌の上に梅を。

というように、幾重にもなる層にしていくといいのよ。

と友人は言った。

 梅の実は仁と種と果肉の層を作り、木も年輪という層を作り、地も層を作り、人も骨、内臓、筋肉、脂肪、肌と層を作るように、茅葺も、また、層を作っていく作業の繰り返しであるのは確かなことではあるが、地「層」あるいは、血「層」ができるということは、積み重ねが多ければ多いほど、複雑なものや、新しいものが表層にひょっこりと生まれてくるものなのかもしれないなどと唐突に思う。

 今の今の今、私は、私の中を経巡るような、新しい時間の層を、生きているようなのだ。

 










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by akikomichi | 2018-06-05 20:54 | 詩小説 | Comments(0)

月輪寺に行く。

がちりんじと読む。

と言っても、すでに、茅葺の葺き替えに着手しており、大きな茅葺屋根の全体像は拝見できなかったが、歴史ある建物であるので、いつか手がけたいと先輩がおっしゃていたのが印象に残っている。

出来上がった時、また、訪れてみたいところではある。

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by akikomichi | 2018-05-28 10:49 | 詩小説 | Comments(0)

 伊藤博文ゆかりの茅葺の建物を拝見。

 民家なので、かなり荒削りな茅の葺き方で、それがかえって、素朴な感じを、飾り気のない、どちらかというと質素な生活を思わせた。
 確か、彼の生まれ育った家だったと思われる。

 逆に、その近くには、暗殺される前に着工し、暗殺された後に出来上がったという大きな二階建ての洋風建築もあり、近代化の流れを個人の関わった建築で見てとてる、日本の住処の流れをも見て取れるものがあった。
 それにしても、二階には、しっかりと畳の部屋があり、和洋折中の元祖であると思われた。

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by akikomichi | 2018-05-28 10:45 | 詩小説 | Comments(0)

「おうちえん」をされている、大下さんの御宅の茅葺屋根を拝見した。

 おうちえんは、毎日が冒険のような、生活のような、まさしく今生きているものたちが、失っていきつつあるものをしっかりと抱きしめているような、生きる真の力を持った大人や子供が集う場だと思われた。

 ヤギにカーデガンをむしゃむしゃ食われそうになったり、鶏はオスが一匹にメスが十五匹くらいがベストな(ハーレム)状態だということを大下さんの倅の空くんに教えてもらった。

 年ではない、生活の中で知り得ることは、知恵というよりも、当たり前のこととして、普段通りのこととして、話てくれることが、嬉しかった。

 大下さんは、アフリカに行かれて、そこで感じたことを、今、やっているとおっしゃていたが、上村さんも大下さんのようにアフリカに行かれて、茅葺を作って、大下さんのお家の屋根を慈しんでいるようで、個人的なつながりを持つ屋根の、そこで暮らす人のための屋根、生きるための屋根、生活のための屋根も味わわせていただいた。

 大下さんは、農薬を使わないで何町もの田んぼで米を作っておられる。
 そもそも、農薬を使わないで米はかつて作られていたわけで、刷り込まれた農薬神話を覆し続けてもらいたいものである。

 屋根は、少し、雨漏りが気になる場所があるということで、トタンの劣化などの漏れも考慮しつつ、茅葺の吹き替えを近々することとなりそうで、大下さんたちの家族とまたゆっくりお話しできることを楽しみに、心待ちにしている。


 私はビールちょっとでヘタレてしまい、子供達はもちろん大人達ののエネルギーが力一杯漂っているようなおうちえんの中でお眠りさせてもらったが、先輩方はおうちえんの庭でキャンプをさせてもらい、虫に刺されつつも、海で捕獲した亀の手(貝の!)を味噌汁にしたり、野生児けんちゃん先輩の火起こしによる肉の炙り?を堪能した一日であった。

 もう一つの、個人の御宅は、上村さんの知人のえいみちゃんの御宅で、お父さんから受け継いだという、素敵な茅葺のおうちを訪ねた。
 冬は家の中でテント張って寒さしのいでキャンプしたよ〜というほど、去年は今までにない寒い冬であったと話してくれたが、茅葺の風通しの良い造りは、夏にこそ、その底力を見せてくれるものではあるが、雨の時もまた風情があっていい。
 音を吸収して、雨が降っているのも気づかないほど、静かなのであった。

 「風」が通る繋がりと言っては無理があるかもしれないが、「風博士」と知り合いというえいみちゃん、私も京都のミュージシャンの方々の曲が入ったみやこ音楽というCDを持っていたので、もしかして、あの風博士?と盛り上がりました。
 訪れた日も雨の日だったが、雨の日は、そのCDに入っている、風博士のシャボン玉飛ばないと、キセルのはなればなれという曲をなぜか思い出すのだった。

 ちょっと、せつなく、寂しいのが、いい。

 いいもわるいも。酸いも辛いも噛み締めてこそ、人生であるちゅう。

 私も、茅葺職人の端くれ?となれた今、茅葺の家に住んで、水も辛いも見極めたいと切に願うようになった。
 茅葺に関する出来うる限りのことを、体で知りたいのである。


 内装も上村さんの知り合いの大工さんと手がけたということで、お風呂場は五右衛門風呂で、母方のじいちゃんのうちで入った、五右衛門風呂を懐かしく思った。
 可愛いお子さんたちは、たらいで水あびをするらしい。日本の原風景?である。
 私も兄とたらいに入って水浴びしている写真が残っており、日本の原風景、ここにありである。

 また、囲炉裏の上に吊るしてある、植物で作られた円錐形のものに、チクチクした針のようなものが突き出ているものがあり、これは何と聞くと、「弁慶」というものであるという。弁慶がなくなるときに矢に射抜かれた時を思わせる名前の由来であるが、そこに、魚などをさして煽る?燻る?のであろう、貴重な生活道具であった。

 屋根は、去年ボランティアの人を交えて、葺き替えた面は、さすがに美しく、もう何十は持ってくれるだろうと思われたが、家の中まで、拝見できた体験は貴重であった。

 これからは、自分で、生活していく場としても、茅葺の道を生きていきたいものである。

 
 

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by akikomichi | 2018-05-28 10:31 | 詩小説 | Comments(0)

 「いけにえ」となって「金龍神」を鎮めた「般若姫」の墓所「般若寺」。

 ここもまた奥日田美建の親方と先輩方が手がけた茅葺の屋根のお寺の門である。

 少し高台から、屋根を俯瞰できる眼差しを持つことができる貴重な屋根でもある。

 屋根を下から拝見できることはもちろん、屋根の上に登っている時よりもなお、上の、遠くから屋根全体を拝見できるのである。上からの立体的な眼差しを獲得し、全方角的に茅葺を見られるということは、自分にとっては、貴重な体験であった。

 屋根は山の上というのもあり、周りに木が生い茂り、門の近くにも迫り来る勢いがあり、日当たり等を考えると、どちらかというと近くには何もない方が、茅葺屋根は長持ちすると言われているが、木の中に溶け込んだ、茅葺もまた、色目の違いが際立ちもし、美しいものではある。

 軒の隅がしゅっと美しく反り上がるところが、神社仏閣などで多く見られる造りで、それを踏襲しているものの、隅を作る職人の方々の個性もまた、僅かながらも、見て取れるようになってきたのは、目が出来てきたことにもなるかと嬉しくもあったが、何より、先輩方の名前をお聞きしながら、誰があの隅を作ったという、職人の責任のような、どこまで丈夫に長持ちし、美しく出来上がっているかの、毎回の、屋根葺きのあくなき挑戦でもあるので、その重みを感じつつ、ありがたく、拝見した次第である。

 三苫親方や上村先輩から、屋根に触って、その傾きを知ることが必要であると教えていただいて、特に良い形になった時などは、体で覚えるようにおっしゃっておられるが、全身体感覚を持って、体に取り込みたいものである

 そこの空気と、時を重ねた、歴史と物語とともに。




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by akikomichi | 2018-05-28 09:46 | 詩小説 | Comments(0)

 遅ればせながら、黄金週間中に拝見した茅葺への道のお話。

 山口県柳井市のホームパージより以下抜粋。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 柳井市遠崎妙円寺の境内にあり、月性展示館は幕末の海防論者で勤皇僧、月性に関わる書画、額画、巻軸、書翰、書冊などを展示しています。

 また、清狂草堂は月性がひらいた私塾で、松下村塾と並び討幕に活躍した多くの門人を生んでいます。


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 清狂草堂は奥日田美建の親方や先輩方が手がけたものであり、前々から拝見したかった茅葺の屋根であった。


 伊藤博文も足を運んだという清狂草堂。

 今も残る歴史的な茅葺の屋根の下に、清いながらもふつふつとしたものを内に秘めたものが集う場として、そこにあったのであろう。

 

 ここからすぐ近くに線路があり、時代と共存しながら、そこにあったのが印象的であったが、茅葺の屋根を葺き替えることによって、残り続ける、幕末の余韻に触れられるのも、その空気を伝え続けてくれるのもまた茅葺であることを思う。

 新しい茅で、再生可能な幕末の空気。

 いつまでも損なわれないように願う。


 屋根自体は、傷んでおらず、落ち着いた色味は安らぎながら息をし続け、柔らかいながらもぴんと張り詰めた軒や屋根面は職人の手で美しい姿を保ち続けるのである。




 月性師記念碑は明治40年に建てられ、篆額(石碑の題字)は毛利元昭、碑文は山縣有朋の選、筆は徳山の赤松連城。

「独り月性方外(僧)の身を以て慷慨義を唱え君を愛し国を憂うる己私より甚だし」とあり、月性の熱烈なる愛国精神が述べられていた。


 



慷慨義烈こうがいぎれつ

世の惨状を嘆き憤慨し、自らの義と情熱に駆られること。
慷慨は気持ちを高ぶらせて嘆くこと、意気盛んなこと。
義烈は義を守る心の強さ。
慷は心に康で、康は米印とY型に立てた糸巻きの固い心棒を描いた庚から成り、固い筋の入った穀物の外皮のことを示す。
そこから丈夫で固い、筋が通っているという意を持つ。
これに心がついて慷となり、心が強く高ぶることの意味となる。
慨は心に既。
既は皀に旡で、皀は穀物の一粒を意味し、旡は腹いっぱいになってため息をつく様を描いたもの。
穀物(ごちそう)を腹いっぱいに食べて限界まで行ってしまうことで、そこから「すでに」という意味を持つ。
これに心がついて慨となり、心がいっぱいになって胸が詰まる様を示す。



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by akikomichi | 2018-05-28 09:18 | 詩小説 | Comments(0)

「杉皮の神様のような」

先日、先輩と樹齢70年程の杉皮を受け取りに行った。

杉皮を丁寧に手仕事で剥いでいく。

たろうらさんは、杉の命の表皮を剥がしていくように、杉皮を丁寧に手仕事で剥いでいく。

ご夫婦で携わっておられて、奥方からお聞きしたのだが。

杉は立っている時はまっすぐに見えるが、たおしてみると、ところどころ曲がっていることがあるという。

その曲がっているところを見定めて、一番杉皮を生かして使わしてもらうように、例えば2メートル30センチ、90センチの長さで皮を剥いだりする。

製材所などから出る杉皮と一線を画するのは、杉皮に対する思いのようなもののように思えた。

一枚一枚が大きく、「ほて」や「棟」などの雨風に一番さらされると言ってもいい強度が必要になってくる重要な場所や人の目によく触れるので美しさをも求められる場所に使われることとなる。

製材所にとっては、いるものは裸の杉の木であって、剥がされた表皮としての杉皮は、いらないもの、言ってみれば廃材としてのものであり、一山であっても、バラバラの、いろいろな形をした不揃いなものが多く、そこから、60センチの長さの短冊状になたで切って束にしていく。
それはそれで、杉皮葺きのときに必要な大きさなので、我々にとっては、必要で、大切なものであるが。

たろうらさんの杉皮は、ひとつひとつを倒し、皮を剥ぐという、今の時代に逆行しているような、杉との付き合いのしかたが密であるように思えた。

時間をかけるということと、杉の命を見届けるということと、機械ではなしえない手間暇がいるということ。

息づいている場であるということ。

山のなかで生きている杉の生き場所をしっているからこそ、疎かにできないような、手間暇をかけるということが出来るような気がした。

時間という速さではない、時が流れている場所にいられることに、杉皮の神様のようなものにふれたような、心から感謝したくなる出会いであった。

息子さんが引き継ぐということで、頼もしい限りである。









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by akikomichi | 2018-03-14 20:49 | 詩小説 | Comments(0)

「原風景としての」

 今回、補修に関わった、日田の咸宜園は、「咸(ことごと)く宜(よろ)し」という広瀬淡窓の願いのこもった場所であったという。

 思えば、咸宜園には縁があった。

 広瀬淡窓の縁の塾であることは知っていたが、日田で開催されていた自由の森大学に月に一度訪れていたときに、行ける時は見に行っていたのだ。
 広瀬淡窓が夢の日記のようなものを書いていたのを漠然と覚えていたのだが、まさか、自分がその屋根の上に登って、屋根の補修に携わるとは夢にも思わなかったが、これも、ここにいることになった、運命のなせる技であると言えよう。 
 
 屋根の谷の部分などで、杉皮葺きをしていたのも、当時は全然わかっていなくて、茅葺屋根であることしか、見えていなかったが、今は、間近でその作られる場を見られることで、少しずつ、細部が見えてくるようになって、これからは、もっと違った見え方でみえてくるようになると思われるので、今、自分の見えていることを書き残しておけるものは、書き残していきたいと思う。

 親方の手を見ていた。
 谷を埋めていく茅の上の杉皮の一枚一枚を手わたしながら。
10〜12,3センチの幅、60センチほどの長さの短冊状の杉皮を使うのだが、谷の形に合わせて、場合によっては、斜めに切ったり、短く切ったり、その場にあった形にしていくばかりでなく、薄いものから徐々に厚手の丈夫な杉皮を上の方に葺いていく過程を目の当たりにした。
 それを、篠竹などで押さえていく。

 そもそも、谷状の屋根の場所は、雨が流れやすく、傷みがはげしいとされる場所で、そこを茅よりは硬く、皮の厚いものを使うのは理にかなっていると思われるが、茅の上に、杉皮を使うことによって、茅だけの場合よりも、屋根面の乾きに若干の差ができると思われる。
 茅のみの場合よりも、乾きは杉皮のほうが乾き具合は、茅と杉皮の間の別の素材であることもあり、遅々としている場合も考えられ、雨に強いと思われれる一方で、乾きの面では弱いと言わざるをえないという、両面を考えて、その屋根にあった谷をつくり、屋根にあった素材を選ぶ必要があるということを、以前、先輩の上村さんにお聞きしたことがあり、そのことを目の当たりにした現場であった。


 雪が降る中の仕事であったので、お天気とともに行動している、動物的本能が蘇るような、季節に敏感になるような、いつも空を見ているような毎日である。


 茅乃舎さんの現場においても、雪が降った。
 親方は、現場で、雪かきをしたのは、はじめてだとおっしゃっていた。
 雪をかいて、速く乾いて作業ができるように、茅混じりの雪を集めて回った。
 寒波がやってきたのは、全国的ではあったが、久山の、黒田藩の隠れ城がの近くの関所のようなところに、茅乃舎さんがあったというから、人里から離れ気味のところではあったが、蛍も棲んでいる川の流れの近くにある茅乃舎さんは、風情があり、こんもりとした山のような、かなり大きな茅葺きの屋根であった。

 大きな屋根であるとともに、川の近く、山の近くということもあり、湿気と山陰の影響はあるとして、さらにお食事どころであるため換気がしたくとも、お客様のいる間はもちろん、セキュリティ関係の都合上か、なかなか開け放し状態にはできないという、次練磨もあったようであるが、なんとか、長持ちできるよう、手をつくして、丁寧に補修をされていた。

 自分は、まだ、茅を運んだり、道具を運んだり、掃除をしたり、見て覚えさせていただく段階ではあったが、間近で拝見できる、貴重な現場にいられて、心より感謝している。

 また、近くの山水荘の女将さんや旦那さんにも泊まりの際に、とても良くしていただいて、毎日が天国のようであった。


 今現在、伺っている那珂川の個人のお宅もまた、川の近くの、しかも蛍の飛ぶ清い川のほとりであり、お宅の庭にもおそらく蛍が舞うのであろうと思うと、「茅葺き」と「川」と「蛍」は、どこかで重なるもの、同じところで息をしている、生きている、流れている時空間にあるもののようにも思えてきた。

 原風景としての茅葺きを、ずっと思い続けている。

 







 



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by akikomichi | 2018-03-10 21:12 | 詩小説 | Comments(0)