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「井手さんの一周忌」

もう直ぐ井手さんの一周忌がやってくる。

茅葺の先輩であり、厳しく指導してもらったが、ご自分にも厳しくストイックに生きた先輩であった。

なくなる一日前に、第二作業場を整えるために、井手さんと二人で作業していた時のこと。

井手さんは、私が家族と離れて暮らしていることを慮って、

帰ってやらなくていいの?

と心配してくださっていた。

いやいや、大丈夫ですよ。私がいない方が、よっぽど、自由にしていますよ。

などと言ってはいたものの。

片道二時間半ほどかかり、まだ慣れない仕事で、体力もそれほどなく、毎日、覚えることで必死であったし、少しでも時間があれば、溶けるように眠ってしまっていたので、帰る余裕すらなかったので、子供の剣道の試合や、いろいろあって迎えに来てとsosがあった時は、飛んで帰っていたが、それ以外は、仕事に没頭していた。

それほど、茅葺に取り憑かれていたのは確かである。

今も、そうではある。

毎日、自分の限界に挑戦しているのも確かではある。

生活もおろそかにしたくないので、茅葺の仕事を続けるためにも、生活も出来うる限り整えてきているつもりではある。

私は、そうして、井手さんが仕事に対して、あるいは仕事があって成り立っていると言える生活に対して、思いつめていたことに、気づきもしていなかった。

生きることに絶望してしまったのかもしれない。

私も、その気持ちは、よくわかる気がした。

絶望していたのだ、生きることに対して。

だから、茅葺に取り憑かれたのかもしれない。

何かやることがあることで、人は救われる時もあるのである。

あまりに辛いことを、考え込まなくていい限りにおいて。


先日、体を壊して入院して、手術をやっと受けて、体調もある程度回復したという兄と、絶望と希望について、なんとはなく、話をしていた。

兄は絶望の底にいるようで、希望を持っていた。

そこから抜け出すという小さいながらも大きな希望。

私は希望の中にいるようで、そこの見えにくい絶望を見ていた。

茅葺と生活が一体化している自分にとって、重要な、とても重要な希望が失われるかもしれないという、虚しい、希望と絶望を行ったり来たりしている状態なのであった。

子供たちと離れて暮らすことは、絶望ではあったが、子供達が希望そのものであったので、離れ離れであろうと、なんとかやり過ごすことはできていた。

旦那さんとは、友人であり、子供を育てるパートナーであり、感謝もしているが、離れ離れであっても、あの人は大丈夫という変な希望はあったが、前の仕事を離れて、自宅で仕事をしている一抹の不安はあったものの、絶望とまではいかなかった。


井手さんは、何に絶望したのであろうか。

この一年、ずっと考え続けてきた。

厳しい先輩ではあったが、時々、面白いことを言って笑わせてくださった。

私が、奥日田美建の「奥」という焼印を足場板に押して、

こんな感じで、この烙印でいいですか?

と言ったら、いやいや、焼印やろ。烙印やったら、いい意味で使わんやつやろ。

というツッコミを入れてくれたり。

でも、焼印は上手くなった。焼印博士やん。

とか、褒めてくれたりもして。

何かでやらかした時に、

今度、その代わりにラーメン奢って。

とか、冗談も言ってくれるようになっていた。

亡くなった前の日の現場では、差し茅もやらせてもらって、それを背中から見守ってくれていたのを覚えている。





茅葺が好きで、ご家族が好きで、村上春樹が好きで、釣りが好きな方であった。

おそらく、茅葺の仕事に対して、責任を感じすぎて、お一人で抱え込んでしまわれたのではないかと、思ったりもしたが、井手さんにお聞きしてみないと本当のところはわからないのであった。


私が至らなかったから、亡くなったとある人に言われたことがある。

その人は、井手さんが亡くなったその日に、現場をやめた人である。

その人がやめたら、別の現場が回らなくなるのではないかと思い、やめないで欲しかったが、私が、至らない私が、正社員になるのがどうしても認められないといわれ、私もどうしていいかわからなくなった。

子供をまだ育てていかないといけない事情はもちろんのことであるが。
自分のわずかな収入もバカにならないので、まだまだ至らない自分を正社員にしていただけることに感謝しても仕切れなかったが。

どうせやる仕事ならば、好きな茅葺をやれるものならやりたかったし、実際に好きなことをやれるだけでも幸せであったのだが。



好きで入ったこの世界ではあるが、井手さんに、

好きということだけでは続かんよ。

と言われた事もあった。



お葬式の時、親方が井手さんに送る言葉を言われている時に、お話ししてくださったのであるが、茅葺の現場をずっと見ていて、親方たちが声をかけてみると、

茅葺が好きで見ていた。

と言われたという井手さんの言葉は、重たい真実だと思われた。



私も好きで必死で働いてもいたのだが、はたから見ると、そうは見えないことも、多々あるらしく、毎日、心でも、全身でも泣いていた。

井手さんは、私が空回りして、至らないだけで、亡くなるような、そのような柔な方ではないと、自分は思っていたし、実際にそうだと思われるし、逆に、私のような目の前をひょこひょこしているだけの、ひよっこに絶望して亡くなるような小さな人ではないと確信はしているのだが。


もっと大きな絶望に連れて行かれてしまったのだ。

と。


一年が過ぎた今、私も、その大きな絶望を突きつけられているような気がしている。

いつも。

隣にいる。その希望の皮を被った絶望。
















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by akikomichi | 2018-06-22 23:51 | 日記 | Comments(0)

「燈台へ」ヴァージニア・ウルフ みすず書房  以下抜粋。〜〜〜〜〜〜〜



この暗い楔形の芯は、どこにでも行くことが出来ます、誰にも見られないのですから。

誰にもそれを止められないと少し得意になって考えます。

自由があり、平和があり、中でも、すべての力の統一があり、ゆるぎない土台の上での休息があります。

自己として人は休息など見出せぬものであるのは経験の上から知っております(ここで、何か素晴らしい編針の運びを成し遂げました)。

それが出来るのは黒い楔形の芯だけなのです。

個をなくすれば、いらだちあわてて、心のさわぐこともない。

すべて物が、この平安、このやすらぎ、この永遠に、きたりつどう時に、人生に対する勝利の歓声が、私の唇にのぼってきます。

ここに、身を休めて、燈台のあの閃光、あの三番目の息のながい、着実な輝きに、目をあてようと、見はるかします。

これこそ私の輝きなのです。

この時間に、このような気分であの燈台の光の帯を眺めていますと、自分の眺めている物の一つに自分を結び付けないではいられないのです。

それで、これ、この息のながい、第三の着実な光の帯、それが私のものなのです。

度々私は仕事を手にして座っては眺め、座っては眺めしていて、ついには、自分の眺めているもの、例えばあの光、になってしまっているのに気がつきます。

それで、その光は私の心の中にあった色々な短い言葉をその上に乗せてゆきます。

「子供は忘れないのです、子供は忘れないのです」

またそれをくりかえしてゆくうちにそれに新たにつけ加えて、

「それはやがて終わる」

と私は言います。

「ああ、やってくる」、「やってくる」、その時、不意に「我らは神の御手にあり」、と付け加えました。

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by akikomichi | 2018-01-17 21:30 | 日記 | Comments(0)

イザベラ・バードが見た日本は、緑の深い奥まった日本であったようではあるが、新潟に茅葺の勉強に行った時に訪れた大内宿の茅葺の家々の詳しい記述は見当たらず、おそらく、その当時はどこにでもある風景として、認識されていたと思われる。

彼女は北海道のアイヌの村も訪れている。
アイヌの人々に、どちらかというと欧羅巴に近しいものを感じていたようである。

以下、茅葺や屋根に関する記述抜粋。

第十一信
藤原にて
板葺屋根に携わって茅葺屋根になっているので、村の姿もだいぶ良くなった。急な屋根、深い軒端と縁側がある。屋根や壁は暖かそうなあずきいろである。ごたごた混雑している農家の風景も、奇妙で面白い。椿やざくろの生垣があり、竹藪や柿の畑がある。

悲しみに沈めるときに楽し日を
思い出すほどかなしきはなし(テニソン 〜 ダンテ「地獄篇」)

第十一信
津川にて

美景を添える茅葺屋根は姿を消し、津川では屋根は樹皮を細長く切ったものを葺いてあり、大きな石で押さえてある。しかし、通りに面して切妻壁をを向けており、軒下はずっと散歩道になっている。




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by akikomichi | 2017-12-11 20:39 | 日記 | Comments(0)

一度だけ仏教寺院のことを書いてみることにする。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

土台は四角の石からなり、その上に柱が立っている。
柱は楡材で、間隔を置いて縦の木材と結合されている。
屋根が非常に大きくて重みがあるのは、桁構えの構造によるものである。
これは一つの思い枠組みからできており、頂上まで面積をだんだん少なくして築き上げたものである。
主要な梁は非常に大きな木材で、自然状態のままにしてあげてある。
屋根は非常に重くて装飾的な瓦が敷いてあるか、あるいは金で飾った板銅で覆われている。
ときには、立派な屋根板か樹皮で、1フィートから2フィートの深さまで葺いてあることもある。
壁の外側は、普通厚い楡剤で板ばりがしてあり、漆が塗られているか、あるいは何も塗っていない。
壁の内側は、美しい松材に薄く精巧にかんなをかけ、斜めに切った板ばりである。
天井は平らな羽目板が張ってあり、柱で支えられているところは、一様に円形で、松材の木目の細かい柾目(まさめ)板である。
屋根の梁が軒下に出張っている先端は、精巧に彫刻がしてあり、鈍い赤色の漆が塗ってあるか、あるいは、梁の継ぎ目と同じように銅板で包んである。
釘はほとんど使用されていない。
材木は蟻ほぞで美しく接合されており、その他の接ぎかたは知られていない。


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by akikomichi | 2017-10-09 22:18 | 日記 | Comments(0)

新潟の魚沼に茅葺職人体験に伺った時に、福島にも足を伸ばし茅葺銀座?「大内宿」を訪れた時のことである。

猫が縁側で眠っていたので、近づいてみると、その横にイザベラ・バードがこの家に泊まったことがあるということが書いてあった。

店番をされているその家の子孫の方が、イザベラ・バードはぶどう酒を持っていて、それを飲んでいるのを見て、住民が不気味がったという話をお聞きした。

ぶどう酒が人の血に見えたらしい当時の方々が、生き血を飲む珍しい人を、訝っていたという、今では笑い話であるが、本当にあった異文化交流話である。

イザベラ・バードが日本の奥地を旅したのは、自分の健康を慮っての、気分転換のためのものではあるが、日本を視察する目的も大いにあったようで、もの珍しいということにおいては、外から来た者にとっても、うちにある者にとっても、同じ思いであったようである。

オーストリア公使館のシーボルトの報告と当時の日本の情報を照らし合わせていたということ。

アメリカ外交の成功を長く記念するとイザベラ・バードがいう、アメリカ人の命名したリセプション湾、ペリー島、ウェブスター島、サラトガ岬(富津崎)、ミシシッピー湾(根岸湾)というものも知らなかったが、名前というものは名付けるものの思いが重なってはいるものの、当時の方々にとっては、はた迷惑な、わけのわからない、勝手なことであったともいえよう。

いやいや、勝手に命名するなよ。と。


人力車が初めて街中をはしりだしたのが1871年(明治4年)であるということ。も知らなかった。

今では、いつ始まったかなど覚えてもいないことを書き記すことによって、刻みこまれるものもあるということ。

大内宿にたどり着く前に、イザベラ・バードの見たであろう日本を、これからじっくり読み、寄り添うように、たどっていこうと思う。

大内宿で眠っている猫の夢のようなものであるかもしれない。ひとときのものであるかもしれないが。

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by akikomichi | 2017-09-27 23:39 | 日記 | Comments(0)

怪獣の腕のなか



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by akikomichi | 2017-09-18 22:28 | 日記 | Comments(0)

宗像フェス


生まれ育った宗像でフェスがあるのは嬉しいことです。
可愛い姪っ子ちゃん、ライブも頑張ってくださいね。応援してます。


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by akikomichi | 2017-09-06 22:56 | 日記 | Comments(0)

夏目と冬目

白川村とほぼ同じ こて のことを、岐阜県揖斐郡(いびぐん)本巢町神海では ていた と言っている。
かい型で、材料は けやき である。
ここでは めなし と言って、こて型の表面を鉋をかけたりして正確な平面にして使用しているが、これにはわら縄巻かないというから、一段と精密な仕上げを期待している こて ということがわかる。
つまり、白川村のようにわら縄をまくと、能率的にたたけるが、それほど正確な平面性は得られないで、細かいでこぼこが残る。
めなし といわれるような正確な平面を持った板で叩き揃えれば、それなりに平面性も正確になる。
その代わりに縄のような滑り止めもつかないので、どうしても滑りやすく能率がよくなく、叩く力も余分なものが必要になってくるということになる。
この めなし も使用しているうちに板の 夏目 が減ってきて、自然と 冬目 が浮いてくる適度な滑り止めができるようになってくる。


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※ 年輪を見ると交互に厚さの薄く色の濃い層と、厚く色の薄い層が綺麗に順番に重なっているのがわかる。
  前者を 冬目 といい、後者を 夏目 という。


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by akikomichi | 2017-07-08 21:01 | 日記 | Comments(0)




古浄瑠璃『弘知法印御伝記』(こうちほういんごでんき)

古浄瑠璃『弘知法印御伝記』の写真
写真 島倉英嗣

17世紀の末、人形浄瑠璃は歌舞伎と並んで、庶民の間で最も人気がある娯楽でした。そうした時代の中、人形浄瑠璃『弘知法印御伝記』は、1685年に江戸日本橋の説教座で上演されました。
江戸時代、日本は鎖国をしていたが、オランダとだけは交易をしていました。そのオランダ商館が長崎にあり、博物学者でもあったドイツ人の医師、ケンペルは、1692年に帰国する際、この台本を船の積み荷の下に隠して持ち出しました。やがて、日本に原本が存在しない幻の浄瑠璃となりました。
それから300年以上の時が過ぎて、1962年、ケンブリッジ大学で日本の中世演劇を教えていた早稲田大学の鳥越文藏先生が大英博物館で発見しました。
六段からなる浄瑠璃に仕立てられた『弘知法印御伝記』は、新潟県長岡市寺泊の西生寺に日本最古の即身仏として安置されている弘智法印にまつわる伝説をもとに、虚構を加えた高僧の一代記で、当時の庶民の人生観や宗教心を生き生きと描き出す貴重な浄瑠璃です。



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>新潟県長岡市寺泊の西生寺に日本最古の即身仏として安置されている弘智法印にまつわる伝説をもとに、虚構を加えた高僧の一代記


と言う。

再現できることの喜ばしさ。

昔と今をつなぐものとしての物語の有り様を見た。


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by akikomichi | 2017-06-05 20:25 | 日記 | Comments(0)

sigur ros

先日のこと。
朝早く車で移動中にラジオを聞いていた。
震災で亡くなった大切な人や家族の幽霊にあったという方々のお話を聞いて回った方がおられたのは知っていたが、その方の本の紹介をされていた。
今になって薄れていく記憶の中にありありと生き続けている大切なものを忘れてしまったような切ない、世知辛い世の中であろうとも、魂になってもそばにいてという感覚はいつもあればいいと思う。
その時にかかっていたsigur rosもなんだかしみじみといつもそばにある魂のように懐かしいものであった。
今聞きたいのは、まさしく、そういう音であった。


https://www.youtube.com/watch?v=y-UfM4N-Fo8&list=PLGU0GKCyIp5vf9ZiAb0_f5AzdHDsRdXvt

https://www.youtube.com/watch?v=8LeQN249Jqw&list=PLGU0GKCyIp5vf9ZiAb0_f5AzdHDsRdXvt&index=2

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by akikomichi | 2017-05-14 21:40 | 日記 | Comments(0)