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「原風景としての」

 今回、補修に関わった、日田の咸宜園は、「咸(ことごと)く宜(よろ)し」という広瀬淡窓の願いのこもった場所であったという。

 思えば、咸宜園には縁があった。

 広瀬淡窓の縁の塾であることは知っていたが、日田で開催されていた自由の森大学に月に一度訪れていたときに、行ける時は見に行っていたのだ。
 広瀬淡窓が夢の日記のようなものを書いていたのを漠然と覚えていたのだが、まさか、自分がその屋根の上に登って、屋根の補修に携わるとは夢にも思わなかったが、これも、ここにいることになった、運命のなせる技であると言えよう。 
 
 屋根の谷の部分などで、杉皮葺きをしていたのも、当時は全然わかっていなくて、茅葺屋根であることしか、見えていなかったが、今は、間近でその作られる場を見られることで、少しずつ、細部が見えてくるようになって、これからは、もっと違った見え方でみえてくるようになると思われるので、今、自分の見えていることを書き残しておけるものは、書き残していきたいと思う。

 親方の手を見ていた。
 谷を埋めていく茅の上の杉皮の一枚一枚を手わたしながら。
10〜12,3センチの幅、60センチほどの長さの短冊状の杉皮を使うのだが、谷の形に合わせて、場合によっては、斜めに切ったり、短く切ったり、その場にあった形にしていくばかりでなく、薄いものから徐々に厚手の丈夫な杉皮を上の方に葺いていく過程を目の当たりにした。
 それを、篠竹などで押さえていく。

 そもそも、谷状の屋根の場所は、雨が流れやすく、傷みがはげしいとされる場所で、そこを茅よりは硬く、皮の厚いものを使うのは理にかなっていると思われるが、茅の上に、杉皮を使うことによって、茅だけの場合よりも、屋根面の乾きに若干の差ができると思われる。
 茅のみの場合よりも、乾きは杉皮のほうが乾き具合は、茅と杉皮の間の別の素材であることもあり、遅々としている場合も考えられ、雨に強いと思われれる一方で、乾きの面では弱いと言わざるをえないという、両面を考えて、その屋根にあった谷をつくり、屋根にあった素材を選ぶ必要があるということを、以前、先輩の上村さんにお聞きしたことがあり、そのことを目の当たりにした現場であった。


 雪が降る中の仕事であったので、お天気とともに行動している、動物的本能が蘇るような、季節に敏感になるような、いつも空を見ているような毎日である。


 茅乃舎さんの現場においても、雪が降った。
 親方は、現場で、雪かきをしたのは、はじめてだとおっしゃっていた。
 雪をかいて、速く乾いて作業ができるように、茅混じりの雪を集めて回った。
 寒波がやってきたのは、全国的ではあったが、久山の、黒田藩の隠れ城がの近くの関所のようなところに、茅乃舎さんがあったというから、人里から離れ気味のところではあったが、蛍も棲んでいる川の流れの近くにある茅乃舎さんは、風情があり、こんもりとした山のような、かなり大きな茅葺きの屋根であった。

 大きな屋根であるとともに、川の近く、山の近くということもあり、湿気と山陰の影響はあるとして、さらにお食事どころであるため換気がしたくとも、お客様のいる間はもちろん、セキュリティ関係の都合上か、なかなか開け放し状態にはできないという、次練磨もあったようであるが、なんとか、長持ちできるよう、手をつくして、丁寧に補修をされていた。

 自分は、まだ、茅を運んだり、道具を運んだり、掃除をしたり、見て覚えさせていただく段階ではあったが、間近で拝見できる、貴重な現場にいられて、心より感謝している。

 また、近くの山水荘の女将さんや旦那さんにも泊まりの際に、とても良くしていただいて、毎日が天国のようであった。


 今現在、伺っている那珂川の個人のお宅もまた、川の近くの、しかも蛍の飛ぶ清い川のほとりであり、お宅の庭にもおそらく蛍が舞うのであろうと思うと、「茅葺き」と「川」と「蛍」は、どこかで重なるもの、同じところで息をしている、生きている、流れている時空間にあるもののようにも思えてきた。

 原風景としての茅葺きを、ずっと思い続けている。

 







 



# by akikomichi | 2018-03-10 21:12 | 詩小説 | Comments(0)

 その日は、すこし寒かった。
 夜明け温泉に入ったあと、夜の釈迦岳に行こうといったのは、私ではなく、友人であった。
 友人は、家族と離れて暮らしていた。
 結婚を卒業したような、家族を卒業したような、人生を卒業したような、日々を送っているが、みるからに心も躰も自由であった。
 一度は、私と一緒に暮らそうとしたが、友人でありつづけるためには、一緒にいることは無理であることに、お互いに思い至り、それからは、今まで通りに、会いたいときにどちらからとなく連絡を取り、しばらくあっていなくても、いつもいてもいなくても、そこにいたように、お互い話し始めるのだった。
 その夜もそうであった。
 突然、連絡があり、夜明け温泉にいこうといったのは、友人であった。源泉かけ流しの鄙びた大衆浴場で、演歌が厳選かけ流しになっていて、心も躰もゆるゆるとぬくもっていくのだった。
 薬湯があり、草の香ばしさにつつまれながら、躰の節々がひりひりとしてくるのを感じ、そろそろと線を描くように流れ続ける源泉に打たれにいくのだ。
 頭のてっぺんの天柱からはじまり、鳩尾、脹脛、足の甲、爪先、踵までぐるりと見えない線をえがくように、打たせ続けるのだ。
 私は、見えない線を描き続けていた。
 獣のように、はいつくばって大きな岩をみたり、あおむけになって天井をみあげながら。
 声にならない、叫びにもならない言葉をさがしていたようにも思えた。うたにもならない湧き上がる源泉のようなほとばしるもの。

 その線は源泉に繋がっていた。

 地の底からやってくるようなどろどろとした熱を伴ったもの。

 それが、すっかり冷めてしまったのは、釈迦岳の辺りを見渡せる程の高みのせいであったのかもしれないが、湯冷めしただけではない、心と躰の湯上がりあとのゆるやかな冷えを、夜明けのあとに、いつのまにか夜になってしまうような、目が覚めたのか、睡ったままなのかさえわからないような、休日の間延びした時間間隔のようなものを、まがりくねった山道を上りながら感じていた。

 友人は釈迦岳の中腹でいった。

 つれあいは私の現実にはいなくなった。
 いまひとりでいきている。
 いままで自分を喜ばすことをしてこなかったから、自分だけを歓ばすことに、今は満足している。

 私は、友人と同じ気持ちであったが、まだ、私の中には、ひとりではないなにかがあった。それは、家族というものであったかもしれないし、もしかして、体の中を経巡るみえない源泉のような、赤い血にも潜んでいる記憶のようなものかもしれなかった。
 自分だけではない何かに突き動かされているようにも思えたのだ。
 今、ここにいるということは。

 星は相変わらず見えなかった。
 薄くぼやけたままの夜なのであった。

 ここ、釈迦岳にあった風車は、なくなっていた。
 風力発電の試みがあったものの、収支の割が合わなくなる前に、撤去されたのだという。
 その後には、石碑のようなものがたっていた。

 風が吹いても、うごかない、固まった記憶のような言葉が刻まれていた。

 やっと、ヴァージニア・ウルフの「燈台へ」を読み終えたばかりであったからか、この記憶のなかで回っていた風車に対する思いは、燈台へ生きているうちはいけなかった、こどもを育てて、五十に届くか届かないかで亡くなったある夫人の燈台へのあこがれにていると思った。風車がそこにあるのは知っていながら、とうとう回っている風車を見ずに撤去されていたからなおさらであった。

 毎日のように、あの燈台へいつになったらいけるのと幼いこどもに聞かれて、明日には行ければいいけれど、と、こどもに言うには言うが、哲学者の夫は明日は天気が悪いからいけないと言い続けているうちに、とうとういくこともなく、なくなってしまうのだ。

 そうして、なくなってしまったものの願いを叶えるために、残されたものは、なくなったものの記憶とともに船に乗り、燈台へと向かうのだった。


 なくなった夫人の友人のリリーは、老嬢になり、夫人の暗に結婚することが人生そのもののように、しあわせそのもののように、しきりと薦めたがっていた結婚もせずに、絵を描き続けていた。

 女には繪は描けない、ものは書けないという男のものいいをものともせずに。

 リリーは、夫人の記憶とともに未完成であった一枚の繪を完成させた。

 真ん中に線を描いたのだった。

 その線は、おそらく空と海の境界線であったとおもう。

 あるいは、夫人と夫を分ける線、夫/人というななめの線のようなもの。

 愛していると一度も僕に言ったことがない。

 と哲学者の夫は夫人に言う。ただ自分を愛していると言ってほしいがために。

 しかし、夫人は最後まで愛しているとは言わないままで、ただほほえんで、そこにいるだけであった。

 リリーは、夫人を亡くした哲学者の夫が、夫人の愛の代わりのように同情をだれかれかまわずねだるのが我慢ならなかった。

 絶対に、同情はしない。

 リリーは誓うように、世間と線をひくように、繪の中に一本の線をひいたのだった。

 私は、また、夫人があこがれていた、燈台から溢れる、闇の中の一筋の光の線を思った。

 闇の中だからこそ、みえる線も、またあるということを。

 夫人は真昼の水平線の上を船で渡ることはできなくとも、夜の闇のなかで心だけは、燈台へと向かっていたのだ。


 私と友人は、暗闇の中、もう回ることのない幻の記憶の中の風車を探して、ここに向かってやってきたように思えた。


 私は、なんとはなく、夜明けがくるまで、ここにいようと思った。

 ここからはみえない、坂道の向こうの水平線の上を、風が吹いているのを感じるように。


 あかんぼうをうみたかったの。

 突然、友人は言った。


 あかんぼうをうみたかった。うまれてこなかったあかんぼう。うまれるまえになくなってしまったあかんぼう。ゆめのなかのあかんぼう。うみたくてもうめないひとがあるというのに。うめるのにうまないのはどうかとおもうの。

 友人は、悪夢から逃れる呪文のように、つぶやいた。


 私は、友人と自分との間に、友/人と線をひかれた気分になっていた。


 男は自分の分身がなくなっても何も思わないようなの。もともと、みえないものだから。源泉かけ流しのように、どろどろと流れていく自分の中の自分の細部をそれほど思い描くことはないの。女は自分の分身だけでなく、男の分身も受け入れるのだから、おもいえがくどころか、運命共同体であり、そのものと生きていく。すくなくとも、その分身たちが、体内に留まっている間は。だから、重たい。重みを感じながら自分のなかでそだてていくのだから。男は、身軽になるばかりだというのに。


 友人はいった。


 恋人や愛人とは別もので。
 家族になるということは、運命共同体になるということ。分身と分身が出会って。分かれていたものをいったんひとつにしたもの。こどもはその確たるもので、こどもが家族の強い核になって、ひとつの運命共同体の形をつくるの。


 私は思った。


 今、ひとりで、運命共同体としての家族はあなたの現実からいなくなったのなら、あなたは運命そのものになったということか。


 私もまた、冷え切った躰で、夜明けを待ちながら、運命そのものになっていくことも、そんなに、わるくないと思いはじめていた。


 最後には、みなそうなっていくようにも思えたのだ。

 そうして、燈台や風車は、運命の輪のように周り続けながら、ときどき、くらやみでみえないものやしけでなくしてしまったものやしあわせのようなものを、ふうっと思い出させるものなのだ。と。

 

 
 





 

 



# by akikomichi | 2018-03-05 14:47 | 詩小説 | Comments(0)

寒かったろう

雪の中 水に入りし 男あり 寒かったろう とけゆくことなく
# by akikomichi | 2018-01-22 23:09 | 短歌 | Comments(0)

「この茅葺の下で」

この茅葺の下で、国のことを語っていたんです。

と神尾さんはおっしゃった。

ご先祖さんは会津からやってきたのです。
幕府からの命を受けて。
そうしてこの茅葺の家を建てた。
曲家なのは、そのせいです。
九州では見かけんでしょ。
会津のやり方だったのです。
この家は積もった雪を落とせるように作られているのです。
あの柱が、雪の重みでしなるでしょ。
そうして、雪を落とすバネになるように作られているのです。
床下を見てください。
間者が入れないようにふさいでいるでしょう。
そうして、ここでは、国のことを語っていたのです。
ここいらは、昔は幕府の直轄のようなところで、今でいう軍事基地みたいなものだったんです。
長崎のグラバーのところなんか、武器を売っていたでしょ。
グラバーの家は高台にあるでしょ。
あそこから、試し射ちなんかやってたんですよ。
人や船がいない時なんか、直接試し射ちできるから、あんなところにうちを建てているんですよ。
ああいう武器を誰がどのくらい持っているかは切実な問題で。
当時は、植民地になるのを避けるために、どれだけ幕府が骨を折っていたか。
そうやって、当時の重鎮、会津のものも含めて、いろんなところに散らばっていたから、中枢での決め事が手薄になって、最後の方は混乱状態となったのです。

茅葺の家を奥日田美建のみなさんと色々なものを拝見しに行ったところの一つで有ったのだが、ご先祖から引き継いだ家を大切に守っている神尾さんから、思いもよらない幕末の話をお聞きしたのである。

今でも、そこで語り合っているような、神尾さんの口を使って、ご先祖さんが語っているような。

今も、昔も時と場所と規模は違えど、同じ人間が作っているのが、この世の中なのであるというような。

その家があるということは、その時をまだ生きているような、重なり合った時というよりは時を同時に生きているような思いにとらわれた。

そういったものが息づいて、記憶を、人を妊み続けているのが、茅葺の家なのかもしれない。

などと思いながら、神尾さんの茅葺の家を後にした。






# by akikomichi | 2018-01-20 21:04 | 詩小説 | Comments(0)

「燈台へ」ヴァージニア・ウルフ みすず書房  以下抜粋。〜〜〜〜〜〜〜



この暗い楔形の芯は、どこにでも行くことが出来ます、誰にも見られないのですから。

誰にもそれを止められないと少し得意になって考えます。

自由があり、平和があり、中でも、すべての力の統一があり、ゆるぎない土台の上での休息があります。

自己として人は休息など見出せぬものであるのは経験の上から知っております(ここで、何か素晴らしい編針の運びを成し遂げました)。

それが出来るのは黒い楔形の芯だけなのです。

個をなくすれば、いらだちあわてて、心のさわぐこともない。

すべて物が、この平安、このやすらぎ、この永遠に、きたりつどう時に、人生に対する勝利の歓声が、私の唇にのぼってきます。

ここに、身を休めて、燈台のあの閃光、あの三番目の息のながい、着実な輝きに、目をあてようと、見はるかします。

これこそ私の輝きなのです。

この時間に、このような気分であの燈台の光の帯を眺めていますと、自分の眺めている物の一つに自分を結び付けないではいられないのです。

それで、これ、この息のながい、第三の着実な光の帯、それが私のものなのです。

度々私は仕事を手にして座っては眺め、座っては眺めしていて、ついには、自分の眺めているもの、例えばあの光、になってしまっているのに気がつきます。

それで、その光は私の心の中にあった色々な短い言葉をその上に乗せてゆきます。

「子供は忘れないのです、子供は忘れないのです」

またそれをくりかえしてゆくうちにそれに新たにつけ加えて、

「それはやがて終わる」

と私は言います。

「ああ、やってくる」、「やってくる」、その時、不意に「我らは神の御手にあり」、と付け加えました。

# by akikomichi | 2018-01-17 21:30 | 日記 | Comments(0)

親方が、奥日田美建の弟子たちに遺言のような教科書のような「茅葺きの心得」のような書物を三日三晩ほどかけて書き綴ったものをくださった。

誠に有難く、ここにいる幸いに心より感謝申し上げます。



その後、新年会を奥日田美建の皆様とともに。
皆さん、穏やかな方々ばかりでゆうるりと楽しめる時間を過ごさせてもらった。
とりわけ、方言で盛り上がった。

日田の「せれれん」?=「億劫な?、やる気の出ない??」という言葉について。
雨の日や雪の降る寒い日に使うとです。。。by原田氏、伊藤氏

「もす」=「燃やす」という言葉の略の活用について??
「もす」は主に作業場限定?で使う言葉のような、日田の方言のような気がする。。。by上村氏

「かなづち」のづちは後頭部の意味の「づち」から来ている。。。by親方、奥さん

「ぼた」はいらなくなった、カス?のような意味合いでもある。ぼた山など。by親方
ぼた餅はどげんですか?と聞くと、まあそれは違うっちゃないというご返答。

方言すきです。豊かです。ぐっとそのものに近づくような。

豊かな時間を過ごさせていただき、有難いことこの上なし。


せがれの試験の成功を祈りつつ。
皆が充実したときを生きて欲しいと心より願いつつ。














# by akikomichi | 2018-01-13 09:56 | 詩小説 | Comments(0)

むねの奥

むねの奥 フランス夢見る人形のなくしたものはやみの奥かな 
# by akikomichi | 2018-01-08 07:41 | 短歌 | Comments(0)

「燈台へ」

ヴァージニア・ウルフの「燈台へ」を古本屋で手に入れたのは、昨日のことであった。

友達と太宰府でお参りをして、目を患った友人を見舞ってから帰るはずのせがれの乗った電車を待つ間、時間の中に埋没するために、立ち寄ったのだった。

立ち読みしながら、三島由紀夫の書いた最後の物語の一つに、灯台守りをしている男の子が出てきたのを思い出していた。

三島は、燈台に、すでに住んでいる男の子の眼差しを持ってして、海を、一人で見続けていたような。

ヴァージニア・ウルフは、海を、燈台を、向こう側から見続けていたような、気がしてきた。

果たしてウルフの魂は、そこいらに転がる石をポケットに詰めて川に入水しながら、ついには記憶の海へ、時を照らすような、燈台へ、たどり着けたのだろうか。

などと、思いつつ。

深い闇が揺れている海を見るように、外の暗がりの、曲がりくねった道を照らす灯りを見ていた。



# by akikomichi | 2018-01-03 00:03 | 詩小説 | Comments(0)

初夢を忘れてしまったから、もう一度だけ、夢を見ようと思うの。

と、彼女はひとりごちた。

私は、忘れてしまうことができない夢を見続けているような心持ちになった。

これまでの月日は、彼女にとっては忘れてしまった初めての夢よりもなおきれいさっぱりとしたものになってしまっていたのだけれど、私はまだ夢から覚めないまま、ずっとここにいたのだった。

彼女は私から離れていこうとしていた。体はもちろんのこと、心までも。

私は、彼女をとどめておくことができなかった。

なぜなら、彼女は初夢をすでに忘れてしまったように、私をも忘れ去ろうとしているのだから。

私は、彼女の初夢であったかのように、彼女の前から、姿を消すことになるのだ。

跡形もなく。

そして、彼女がもう一度見る夢は、一年に一度巡ってくる、初めての夢のように、思い出せなければ意味のないような、あるような曖昧な記憶の空(うろ)に溶け出していくようなものであるようで、夢を現実と見紛うような、夢を実現し、現実を超えたところに連れて行かれるようなものであるならば。

私は、もう一度見ようとしている夢に消されてしまうような、儚いものとなるのは確かなことなのだった。

私は、彼女の中には、いなくなるのだ。

私は、私でしかなくなるのだ。

そうして、初夢ではない、時々、デジャヴのように、いつか見たことがあるような、ないような、幽かな夢のようなものになるのだ。



それから。

彼女は、三が日を過ぎてから、初夢を忘れてしまった証のように、長い夢を見ていたような私の前から姿を消した。

緑の枠に収まった昔の名前を思い出したように。

かつての戦争の時のように、生きていくためにと、死の戦場に繰り出されるまえに届いた赤紙のように、赤い枠にはめ込んであった私たちの家族という形を、忘れてしまったかのように。

# by akikomichi | 2018-01-02 17:42 | 詩小説 | Comments(0)

「茅葺の民俗学」生活技術としての民家 安藤邦廣 はる書房より以下抜粋。


東京でも町家が瓦葺に変わったのは江戸末期で、その前は板葺、さらにその前は茅葺であったことは茅場町という地名が残されていることによっても知ることができる。

茅場町は江戸築城のとき神田の茅商人が移り住んだために呼ばれたという。

また、東北地方の宿場町や武家屋敷には茅葺がなお数多く残されている。

北海道のアイヌの住居は屋根ばかりでなく壁も茅葺である。

また、南国沖縄といえば強烈な太陽に照りつけられた赤瓦葺が印象的であるが、このような赤瓦葺の一般庶民への禁令が解かれるのは明治二十二年の事であり、今日のような赤瓦葺の景観が一般的になったのは第二次世界大戦以降の事である。

それまでの沖縄の庶民の住居といえば茅葺で、壁も茅葺としたものが少なくなかった。

このような屋根ばかりでなく壁も茅葺とした住居は本土の山村にも戦後までいくつか残されており、なかでも長野県秋山郷の民家は広く知られるところである。

# by akikomichi | 2018-01-02 11:13 | Comments(0)

「茅葺の民俗学」生活技術としての民家 安藤邦廣 はる書房より以下抜粋。


草で葺かれた屋根の総称としては茅葺屋根の他に草屋根、草葺屋根、葛屋等が用いられた。

葛屋とはありあわせの屑物を利用して作られた屋根、またはその家という意味である。

またすすきで葺かれた屋根を茅葺屋根と呼ぶのに対して、稲わらや麦わらで葺かれた屋根はわら葺屋根と呼ばれる。

さてこのような茅葺きの屋根は古くから北海道、沖縄まで住宅に限らず社寺等のあらゆる建物に用いられてきた。家屋文鏡(奈良県の佐古田の宝塚古墳から出土した古墳時代の傍製鏡)に描かれた住居の屋根は茅葺屋根と考えられ、また埴輪に見られる屋根も茅葺屋根の形態を表している。古代の住居(倉)の形式を伝えるといわれる伊勢神宮の屋根も茅葺である。

# by akikomichi | 2018-01-01 13:15 | 日記 | Comments(2)

「茅葺の民俗学」生活技術としての民家 安藤邦廣 はる書房 より 以下抜粋。


茅とは屋根を葺く草の総称で狭い意味には最もよく使われるすすきのことである。
かやは茅(萱)の他には古くは、茅草、草の字が用いられてきた。


爾(ここ)に即ち、其の海辺の波限(ナギサ)に鵜の羽を以ちて茅草(カヤ)と為て産殿を造りき。
〈略〉〈波限を読みて那芸佐と云ふ。茅草を訓みて加夜(カヤ)と云ふ〉(古事記ー上)


わがせこは、 かりいほつくらす、くさなくば、こまつがもとの、 くさをからをからち
吾勢子波、 借廬作良須、 草無者、 小松下乃、 草乎苅乎苅核   (万葉一巻)


次に草の祖(おや)草野姫(かやのひめ)を生む。亦の名は野槌    (日本書紀ー神代上)


このような かや の語源として次のような説がある。

一、かりや(刈屋)の約(冠辞考続貂)
刈って屋を葺く物の意のかりや(刈屋)から茅料に用いる草の総称をかやといい、それに最適の萱、茅を特にかやと呼ぶようになった(大言海)

二、かや(上屋)という意をもって茅料をかやと言い、これに禾草(かくさ?)を用いたので草をかやと称し、さらに茅料に最適する萱、茅の類をちかや(ちは強の意)略してかやといったところから(日本古語大辞典)

三、かおや(草祖)の義(言元梯)

四、毎年冬春の間に刈って焼くところから、かりやく(刈焼)の略(名言通)

五、かれ(枯)やすきところから(和句解)

六、風のためにかやかやと音がするところから(日本語源)

七、くさよはの反(名語記)


以上のように茅は屋根を葺く草の総称であり、すすきの他によし(あし)、かりやす、かるかや、しまがや、ちがやなどのイネ科の多年草、麦わら、稲わら等の穀物の茎、麻桿(あさわら?)、笹等の手近に入手できる材料が使われた。
このような草は屋根を葺く材料としてみなされた時にはじめて茅と呼ばれるのであり、たとえば、お月見に飾ってあるすすきを茅とは呼ばないのが普通である。


# by akikomichi | 2017-12-31 15:22 | 日記 | Comments(0)

亀の井別荘の客室の一部とお食事どころの湯ノ岳庵と門の今年の分の葺かえが終わり、湯ノ岳庵で慰労のお食事会にオーナーのご家族と建築家の柿沼先生にお招きいただき、奥日田美建の面々に心のこもったおもてなしをしていただく。

忘年会のような緩やかな和みの空間であったが、これまであったいろいろなことが走馬灯のように思い出されて、一つの映画の終わりのような、繰り返し見ることのできる、思い返すことになるであろう、忘れることは生涯ないであろう現場であった。

聞くところによると、湯布院の映画祭は日本で初の映画祭であったらしく、その立ち上げ当初に深く関わっておられたというお話をお聞きし、映画を愛してやまない方の作られた空間と名前を感じつつ、その場に茅葺を溶け込ませ、そこにあり続けることを選んでくださった方々に、感謝せずにはいられなかった。

亡くなった先輩の魂が棟から見守ってくださることを切に願いつつ、心を込めて、丁寧に皆さんの力を合わせて作り上げたものである。

いつまでも守り続けられますように。末長く皆様方から愛されますように。心からの感謝を込めて。

# by akikomichi | 2017-12-29 10:48 | 詩小説 | Comments(0)

生き生きて

ともに過ごして

ともに生きては

今を楽しむ

友の心のありがたき

豊かな時を過ごしける

心の友のありがたき

楽しき時を生き生きて

今を味わい尽くすのだ

今を心に満たすのだ







# by akikomichi | 2017-12-24 23:52 | 詩小説 | Comments(0)

「門と肉」

茅葺の「門」の上のこけを毟り、古茅を剥ぎ取り、ついには竹とむき出しの木だけとなる。

これからまた、「肉」付けをしていくように、記憶を再生するように、茅を葺いていくのだ。

我々は、記憶の「門」を開いたり閉じたりしながら、自分の記憶の襞を押し広げられるように、幾重にも重なっていくものを生み出していくのだ。

と、皆でご馳走になった美味しい「肉」を食べながら、そう思う。


# by akikomichi | 2017-12-19 21:20 | 短歌 | Comments(0)

「柚子湯と杉皮と」

長い竹に揺すられて
柚子が暗闇から落ちてきた
一つ二つ三つ四つと
砂利の上を転がった

目の前に転がっていく幸いを拾い集めるような
夢が移ろうような
冬の寒さに耐えていた
かすかな痛みのような苦い匂いを拾い集めるような

我々には寒い冬の中であっても
帰ってから柚子の浮かんだ湯の中にたゆたう
干からびたかさぶたが剥がれるような
すっぱい果汁を絞り出すような幸いがそこにもあった

今日の一つの幸い
湯布院の現場で目串を使い杉皮を並べるのを拝見できた
本物に出会えて
そこにいることの幸い

戦後 
日田で林業が盛んになるにつれ
杉皮を利用する機会が増え杉皮葺も自ずと始まったのではないかと教えてくださった
90歳を軽く超えたおじいちゃんがいらっしゃったが

我々は
一つ一つ杉皮を並べ
一つ一つの剥がされた皮を
もう一度 屋根の上で生きてもらえるように並べていくのだ






# by akikomichi | 2017-12-15 00:38 | 詩小説 | Comments(0)

イザベラ・バードが見た日本は、緑の深い奥まった日本であったようではあるが、新潟に茅葺の勉強に行った時に訪れた大内宿の茅葺の家々の詳しい記述は見当たらず、おそらく、その当時はどこにでもある風景として、認識されていたと思われる。

彼女は北海道のアイヌの村も訪れている。
アイヌの人々に、どちらかというと欧羅巴に近しいものを感じていたようである。

以下、茅葺や屋根に関する記述抜粋。

第十一信
藤原にて
板葺屋根に携わって茅葺屋根になっているので、村の姿もだいぶ良くなった。急な屋根、深い軒端と縁側がある。屋根や壁は暖かそうなあずきいろである。ごたごた混雑している農家の風景も、奇妙で面白い。椿やざくろの生垣があり、竹藪や柿の畑がある。

悲しみに沈めるときに楽し日を
思い出すほどかなしきはなし(テニソン 〜 ダンテ「地獄篇」)

第十一信
津川にて

美景を添える茅葺屋根は姿を消し、津川では屋根は樹皮を細長く切ったものを葺いてあり、大きな石で押さえてある。しかし、通りに面して切妻壁をを向けており、軒下はずっと散歩道になっている。




# by akikomichi | 2017-12-11 20:39 | 日記 | Comments(0)

「殺文句」

殺してください。
といわれた。
ロープを徐ろに結ぶ。
ロープに輪っかを作ってその輪っかの首のところに、二度ぐるりとまわして締める。
それから、トラックの引っ掛かりを探して。
我々は、茅が動かぬように、力の限り、くびり殺すのだ。

ある方が亡くなった。
その方が亡くなったのは、あんたのせいだ。
といわれた。
見えないロープを力の限り首といわず全身に巻かれ締めあげられた。
ような。殺文句。

誰かのせいにしないといられない。
殺文句を吐くものは。
あんたが死のうとご自由にと言い放つ。
殺文句を吐き続けるもの。
死神の呪文は殺文句。







# by akikomichi | 2017-11-30 20:33 | 詩小説 | Comments(0)

「杉皮葺の屋根」

杉皮葺の屋根に生えた草を取りに伺った先でのことである。

杉皮葺は、どうやら、戦後、日田などで、杉などの林業が盛んになっていくにつれて、杉皮を廃棄するよりも利用するために始まったというようなことを家主の方に教わった。

杉皮を短冊状にしたものを、丹念に、丁寧に、一つ一つ茅葺の上に重ねていく作業は、根気のいることではあるが、そこで生まれてくる理由があったことを思うと、何事もただそこにあるわけではなく、そこにある理由があるということを思わずにはおれない。

自分が、今、ここにいる理由もまた、語り続けていくにつれ、見えてくることであろうとは思う。



# by akikomichi | 2017-11-21 23:25 | 詩小説 | Comments(0)

観音竹

てっぺんの葉の頭だけ背の伸びる 観音竹の陽のある方へ 
# by akikomichi | 2017-11-19 23:26 | 短歌 | Comments(0)

吉野ケ里

吉野ケ里 茅葺屋根の上に立ち 始まり終わり また始まりの雲
# by akikomichi | 2017-11-10 22:10 | 短歌 | Comments(0)

「赤子の夢」

赤子の夢を見ていた
ひたひたとあの方がおとずれる
といっていた
タゴールの幼子の歌を聴くように

あの何もないがらんどうの家には
風が通っていて
夕暮れの日差しが柔らかい砂がザラザラと辺りを包むように
時にみちたゆるやかな夜を連れてくるのだ

私は一人
そこにすわって
体内に満たされていく気配を育てていくように
そこにじいっとしていた






# by akikomichi | 2017-11-01 03:34 | 詩小説 | Comments(0)

カレーライス

   
牛すじのカレーライスを思い出し なくした心の拠りどころ探し

# by akikomichi | 2017-10-26 23:48 | 短歌 | Comments(0)

「減速効果」

高速を走っていると
つい速度を出してしまう癖があり
その癖を直そうと
かなり減速して走っていた
すると
するりと
猿が高速道路を横切った
少し前の速度なら
確実に当たってしまっていた
減速効果
焦らずに
のっそりと優雅に横切るものを
見ながら
そう思った




# by akikomichi | 2017-10-10 21:15 | 詩小説 | Comments(0)

一度だけ仏教寺院のことを書いてみることにする。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

土台は四角の石からなり、その上に柱が立っている。
柱は楡材で、間隔を置いて縦の木材と結合されている。
屋根が非常に大きくて重みがあるのは、桁構えの構造によるものである。
これは一つの思い枠組みからできており、頂上まで面積をだんだん少なくして築き上げたものである。
主要な梁は非常に大きな木材で、自然状態のままにしてあげてある。
屋根は非常に重くて装飾的な瓦が敷いてあるか、あるいは金で飾った板銅で覆われている。
ときには、立派な屋根板か樹皮で、1フィートから2フィートの深さまで葺いてあることもある。
壁の外側は、普通厚い楡剤で板ばりがしてあり、漆が塗られているか、あるいは何も塗っていない。
壁の内側は、美しい松材に薄く精巧にかんなをかけ、斜めに切った板ばりである。
天井は平らな羽目板が張ってあり、柱で支えられているところは、一様に円形で、松材の木目の細かい柾目(まさめ)板である。
屋根の梁が軒下に出張っている先端は、精巧に彫刻がしてあり、鈍い赤色の漆が塗ってあるか、あるいは、梁の継ぎ目と同じように銅板で包んである。
釘はほとんど使用されていない。
材木は蟻ほぞで美しく接合されており、その他の接ぎかたは知られていない。


# by akikomichi | 2017-10-09 22:18 | 日記 | Comments(0)

じゃにすの命日

つい先日のことラジオを聴いていた
その日が
じゃにすの命日だということを知った

学生時代 
聞いていた歌を思い出した
もうかきむしられるようなことはないと思っていたのだが

古い古い記憶を絞り出すような声
かすれてしまった痛みのような呻き
青ざめた苦々しい記憶

ニューヨークの蝋人形のじゃにすは
長椅子に座ってじっとしていた
確か最後のアルバムのジャケットの長椅子

固まって動かなくなった記憶が
どろどろ溶け出してきたような
生暖かい人肌を抱く目は遠くを見ているような

記憶をたどっている
罪悪感を押し隠すように目を瞑っている 
青ざめた痛みを見ようともしないものよ

あなたの心はもうなくなってしまったのだ












# by akikomichi | 2017-10-08 22:30 | 詩小説 | Comments(0)

詩小説「うなぎの夢」

俺の親父が、日記を密かに書き連ねていたのを、俺が見つけたのは、偶然ではないような気がしていた。

親父がうなぎを食った後、車を運転して帰っている時に、泡を吹いてぶっ倒れたのは、それからしばらくしてのことだった。

路肩に停めることができたので事故には至らなかったのは不幸中の幸いであったが、その時に、隣に座っていたのが看護師の彼女であったのが、不幸中の不幸であったのは、言うまでもない。

お袋は、泡を吹いて倒れて、半身不随になった親父の切れてしまった頭の血管は、ばちが当たったからなのだと言ったが、ばつの悪いことにもほどがあるほど、親父は看護師の彼女のことを忘れられないでいた。

半身不随になって、ハサミのことを切れるやつとしか言えなくなって、固有名詞が言葉にならない、概念崩壊状態の親父は、口がまめらないままであっても、なぜか、女の名前を呼んだのだった。

その女の名前を、俺は覚えていた。

あの日記に書き記されていた名前だった。

あの女は、味噌汁をこさえて、それをひっくり返して親父の足にこぼしてしまったらしい。

そういうことが書かれていた。

その日あった事を細かに、書き記す日記というものは、後の世に残すには、あまりに不用意な、あまりに不用心なものなのである。

戦争中に、兵隊に日記を書かせていた日本軍の日記を分析していたという日本文学研究者もいたが、俺も、親父というものの行動を事細かに、それも親父が本当に生きていると思えたことを書き記している気がしていた。

親父にとっては味噌汁の味ではなくで、味噌汁をぶっかけられた熱い想いを書かずにはおれない、やむにやまれぬ衝動があったに違いないと、思わずにはおれない、何か奇妙な熱のようなものを、その日記から読み取っていたのだ。

親父にとって、本当に書きたかったことは、あの女との些細な痛くもあった日々なのだ。と。

お袋は、そのまま、死んでください、お父さん。と、地獄めぐりをしてチアノーゼで死んでしまった劇作家のような言葉を吐いたが、死に損なった親父は、三日間は本当に死んだように動かなかったのだから、生まれ変わったようにおとなしくなった。

その間に頭の中の何かが崩壊したのかもしれないが、物理的に動きまわれなくなったことと、書き連ねていた日記を書くことができなくなったことで、おとなしくなっただけであるようにも見えた。

親父の日々は、もう、親父だけの言葉で書き連ねることができなくなったのだ。

とりあえず、お袋と共有される時間になったのだった。


俺にとっての親父は、最初から、いわゆるモラルなどくそ食らえのようなものでしかなかったが、同じ男のよしみと言おうか、どこか憎めない、それどころか、実のところ、親父のように奔放にできることなら、どんなにかいきやすいことであろうか。と、欲望に正直な親父が疎ましくもあり、羨ましくもあった。


お袋は、うなぎを見ると、親父の悪行を思い起こすらしく、しばらく、見るのさえも避けていたようであったが、親父が言葉を少しづつ思い出し、リハビリも進んできた頃には、うまそうにかっ喰らうようになった。

お父さんも、いつ死ぬかもわからないのだから、私もあの人も、食べたいものを食べとったら、それでいいんよ。

とお袋は言った。

人は日々、変わっていくのだと、子供ながらに思ったものだ。

人は変わっていく。日々、書き連ねることをやめるほどの何かが起こった時は、特に。


俺は、お袋の気持ちを思うと、親父のようにはならない、いや、なれないと思っていた。

あの人に出会うまでは。そう思っていた。

あの人は、あの女のように、俺の日々を侵食していった。

それから、俺は親父のように日記を書くようになった。

親父のように倒れておとなしくなるまで、あの人の夢を見続けるように日記を書いていくのだと思いながら。

俺は、そうして、「ブリキの太鼓」の一生体だけ小さな子供のままで、心だけ最初から老成していたようなオスカルくんのように、遠くの透明なガラスを破壊できるような金切声で叫ぶのだ。

この夢はいつか見たことがある。と。

オスカルくんの母親は、旦那がいながら密かにいとことまぐわっていたのだが、そういう関係性の中で、どんどんナチ化していく旦那と真反対のいとことの間、それから、いつまでたっても成長しない子供のままのオスカルとの間で、生命線のようなものが切れてしまうように、生きるバランスを失っていくのだった。

とても、象徴的な場面があった。

牛に群がるうなぎを海岸で見つけて、嘔吐したオスカルくんの母親。

そういう、悪夢のような、うなぎの夢。

どちらかというと。

今の俺の日々は。


今日、うなぎを買ってみた。

柳川のうなぎである。

川下りをしている団体客が、豆粒のように、屋形船の進む川の流れとともに、時に流されているのを、柳とともに微かに風に揺れながら、ぼんやりと見ていた。

夢から滑りだすように、俺は北原白秋の生家の近くのうなぎやに入った。

うなぎがうようよとくねりながら、滑り毛のある黒光りするのを見て、捕まえきれない夢のあとのもどかしさに似ていると思った。

俺は、あの人のことを夢に見るような、よどんだ水の中に潜んでいる、夢の中のうなぎを捕まえるような、そんな気分で、親父とお袋に、なけなしの金で、もう死んでしまったうなぎを送ったのだった。










# by akikomichi | 2017-10-01 21:02 | 詩小説 | Comments(2)

新潟の魚沼に茅葺職人体験に伺った時に、福島にも足を伸ばし茅葺銀座?「大内宿」を訪れた時のことである。

猫が縁側で眠っていたので、近づいてみると、その横にイザベラ・バードがこの家に泊まったことがあるということが書いてあった。

店番をされているその家の子孫の方が、イザベラ・バードはぶどう酒を持っていて、それを飲んでいるのを見て、住民が不気味がったという話をお聞きした。

ぶどう酒が人の血に見えたらしい当時の方々が、生き血を飲む珍しい人を、訝っていたという、今では笑い話であるが、本当にあった異文化交流話である。

イザベラ・バードが日本の奥地を旅したのは、自分の健康を慮っての、気分転換のためのものではあるが、日本を視察する目的も大いにあったようで、もの珍しいということにおいては、外から来た者にとっても、うちにある者にとっても、同じ思いであったようである。

オーストリア公使館のシーボルトの報告と当時の日本の情報を照らし合わせていたということ。

アメリカ外交の成功を長く記念するとイザベラ・バードがいう、アメリカ人の命名したリセプション湾、ペリー島、ウェブスター島、サラトガ岬(富津崎)、ミシシッピー湾(根岸湾)というものも知らなかったが、名前というものは名付けるものの思いが重なってはいるものの、当時の方々にとっては、はた迷惑な、わけのわからない、勝手なことであったともいえよう。

いやいや、勝手に命名するなよ。と。


人力車が初めて街中をはしりだしたのが1871年(明治4年)であるということ。も知らなかった。

今では、いつ始まったかなど覚えてもいないことを書き記すことによって、刻みこまれるものもあるということ。

大内宿にたどり着く前に、イザベラ・バードの見たであろう日本を、これからじっくり読み、寄り添うように、たどっていこうと思う。

大内宿で眠っている猫の夢のようなものであるかもしれない。ひとときのものであるかもしれないが。

# by akikomichi | 2017-09-27 23:39 | 日記 | Comments(0)

今年は、イランでのロケも敢行された、「どすこいビューティーズ」という女子相撲映画撮影に参加させていただいたプロデューサーの児玉さんが福岡パノラマの枠で久留米絣の物語を作って上映されているということを知り、伺った。

久留米絣の礎を築いたと言ってもいい「お伝さん」と久留米絣を受け継ぐ者たちの物語であった。

「お伝さん」が久留米絣を受け継ぐ者の前に現れるというちょっと異界な物語ではあった。

見えないはずの者が見えその魂を受け継ぐというようなことが伝えたかったのであろうが、児玉さんご本人曰く「アイドル映画」?!であり、若い方から年配の方まで、久留米絣を愛してほしいという願いを伝えたかったのであろうと思われる。

素直にすうっと入ってくる物語。

それは最初に上映された「伊万里のまり」も同じく。「伝統」というものは、伝えていくという限りにおいて、皆同じ匂いがする。
茅葺もまた然り。

生の茅葺も、映像も、物語も残していきたい。と切に願う。



# by akikomichi | 2017-09-24 05:57 | 詩小説 | Comments(0)

形から入る

形から入るように
心構えを持つように
と今日が最後のお勤めだった
心構えの師匠のシゲさんに言われて
ニッカポッカを手に入れた

オランダの子供服が起源というものもあるようで
ニッカポカーズといえば
オランダ移民のことだという
スポーツや軍服で使われていたという
もともと江戸時代やらの鳶職の方々のそれに近い形だというものもある

ニッカポッカをはいていると
いつも面白いお父さんのような大工さんが
板についてきたねえ
俺が若い頃はいとったのばやるばい
と言って大きな紺のニッカポッカをくださった
ありがたいことである 宝物にしたい


# by akikomichi | 2017-09-21 20:23 | 詩小説 | Comments(0)