2018年 03月 14日 ( 1 )

「杉皮の神様のような」

先日、先輩と樹齢70年程の杉皮を受け取りに行った。

杉皮を丁寧に手仕事で剥いでいく。

たろうらさんは、杉の命の表皮を剥がしていくように、杉皮を丁寧に手仕事で剥いでいく。

ご夫婦で携わっておられて、奥方からお聞きしたのだが。

杉は立っている時はまっすぐに見えるが、たおしてみると、ところどころ曲がっていることがあるという。

その曲がっているところを見定めて、一番杉皮を生かして使わしてもらうように、例えば2メートル30センチ、90センチの長さで皮を剥いだりする。

製材所などから出る杉皮と一線を画するのは、杉皮に対する思いのようなもののように思えた。

一枚一枚が大きく、「ほて」や「棟」などの雨風に一番さらされると言ってもいい強度が必要になってくる重要な場所や人の目によく触れるので美しさをも求められる場所に使われることとなる。

製材所にとっては、いるものは裸の杉の木であって、剥がされた表皮としての杉皮は、いらないもの、言ってみれば廃材としてのものであり、一山であっても、バラバラの、いろいろな形をした不揃いなものが多く、そこから、60センチの長さの短冊状になたで切って束にしていく。
それはそれで、杉皮葺きのときに必要な大きさなので、我々にとっては、必要で、大切なものであるが。

たろうらさんの杉皮は、ひとつひとつを倒し、皮を剥ぐという、今の時代に逆行しているような、杉との付き合いのしかたが密であるように思えた。

時間をかけるということと、杉の命を見届けるということと、機械ではなしえない手間暇がいるということ。

息づいている場であるということ。

山のなかで生きている杉の生き場所をしっているからこそ、疎かにできないような、手間暇をかけるということが出来るような気がした。

時間という速さではない、時が流れている場所にいられることに、杉皮の神様のようなものにふれたような、心から感謝したくなる出会いであった。

息子さんが引き継ぐということで、頼もしい限りである。









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by akikomichi | 2018-03-14 20:49 | 詩小説 | Comments(0)