「悪魔の詩」サルマン・ラシュディ 五十嵐一訳

「自己の本質の可変性の問題とは、」彼はおずおずと話を切り出した、「長いこと大論争の主題であった。
例えば、偉大なるルクレティウスは、『物の本性について』の中で次のように語った。
『何であれ、自らの変化によって、その境界を超え出ていくものは、』つまり、己の殻を破っていくものはーあるいはむしろその限界を打破するものはーいわば、自分自身の規則を無視するものは、むろんそれは私見によればあまりにも自由なものであるが・・・・『そのものこそ』、ともかくもルクレティウスは主張する、『そうすることによって過去の自分自身に直ちに死をもたらすものなのである。』しかしながら、」と言い続けるかつての学校教師の指は上に向かった、「詩人のオイディウスはその『変身譚』において、真っ向から対立する見解を探った。彼の証言はこうである。『恰も姿形を変えるロウが』ー熟せられた時、例えば君も知っての通り、文書か何かを封印する時ー『新しいデザインを刻印され、姿を変えて以前とは異なって見えこそすれ、同じものとして実際留まるように、我々の魂も同様なことに、』ーおわかりかな、貴方様?我々の魂!我々の不死の本質!ー『依然として永遠に同じものとして留まるが、その遍歴の過程において変わり続ける形をとる。』」


けれどもお前こそ畜生め、私の引き出しのガラクタめ、私のバカげた詩を笑わば笑え。真に言語上の問題とは、いかにしてそれを曲折し、形造り、それを我々の自由とし、その毒された井戸を再び修復するか、いかにして血塗られた時代の言葉の河を習得するか、すべて人々がまだ鍵を見出していないことどもについてなのである。

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by akikomichi | 2018-04-27 23:10 | 詩小説 | Comments(0)