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日本武尊の国偲びの歌より

日本武尊の国偲びの歌。 

命の全けむ人は畳菰平群の山の隠白檮が葉を鬘華に挿せその子

ここに「人間永遠の感情として非歴史的に実在するパトリオティズム」(橋川文三)の原型がある。長谷川如是閑賞作家川端秀夫という方が指摘されていた。


なぜ、今になって、この言葉に思い至ったのかといえば、先日、『三島由紀夫と橋川文三』(弦書房、2005年、新装版2011年 橋川門下の宮嶋繁明著)を魚沼から博多へ向かう電車の中で拝読したからでもある。

柏崎のドナルド・キーン記念館で拝見した三島の最後の手紙の内容を考察できるように書き写しながら読んだ後、しばらくして、古本屋で偶然見つけ、やっと読む時間ができたのが、帰りの電車であった。

8月15日に読んだのも、偶然ではあるが、最初から、終戦から天皇制についての流れを突きつけられて愕然とした。

戦前戦中戦後を生きていた方々の劇的な変化を、一つの文学と一つの思想の重なった、あるいは交わった時を、同時代を生きた、共通感覚、共有感覚を、「人間永遠の感情として非歴史的に実在するパトリオティズム」に帰って行った御霊達としての三島と橋川を思ふ。

そういった、日本浪曼派的なるものを、自分は探し続けているのかもしれない。とも思ふ。

「象徴天皇」を受け入れられずにいた三島世代とは違い、初めから「象徴」として教えられてきたそののちの我々の世代は、平和の「象徴」ばかりを求め、都合の良いイメージの中の天皇を作り続けていると言えるが、戦前戦中もまた天皇は、ある意味、神聖の強い日本の「象徴」であったといえる。

今は、曖昧な日本の「象徴」としての天皇に祭り上げられておられる中、生前に退位される問題が浮上してきたと言われているが、どちらにしろ、曖昧なまま、誰がされようと、お役目ばかりが積み上げられているようで、お気の毒ではある。

(貴賎の)差別を助長する天皇制というものもいるが、ならば、天皇制でなくとも、共産主義、社会主義においても(貴賎の)差別が助長し続けているのを見せつけられている昨今であるから、仮に天皇制がなくなろうとも、差別あるいは貴賎は永遠に存在すると思われてならない。

もし、「人間永遠の感情として非歴史的に実在するパトリオティズム」の象徴としての天皇であるならば、八紘一宇的な日本を超えて、どこまでも行けるのかもしれないなどとも思ふ。
by akikomichi | 2016-08-19 23:58 | 日記 | Comments(0)