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『柿の木』

柿の木がどうしても見たくなった老人は、コの字の廊下のタコ部屋みたいな今風老人ホームを抜けだした。

いき止まりなのだ。コの字では。回廊ではない息苦しさ。ここまでの虚しさ。

老人は端っこの部屋から、昔住んでいた家を目指して抜けだした。

杖をついてコの字を辿る。ちょうどコの字の真ん中で、エレベーターにのる。

朝昼夜とご飯が出てくるが、朝と夜だけでいい。

昼はいらない。ただここから這い出ていきたいのだ。

住んでいた家への道すがら、図書館がある。

そこで、一息つこうと立ち寄った。

やっと、外の空気を吸い込んだのだ。

図書館には、係の人がいた。


だれでもいいので、話がしたかったと。

柿の木のこと。コの字のこと。

それから、死んだ女房のこと。
交通事故でなくなった、女房のこと。
あれから、ずっと、一人だということ。
コの字の老人ホームの向こうに女房を轢き殺した会社があって、毎日、いきづらかったと。


だから、コの字監獄を抜けだしてきましたと。


老人はいった。

係の人は、以前あったことがあるような、ないような顔をしていたが、それはどうでもいいことだった。

誰かと話がしたかった。ただそれだけであった。


私は死ぬ気でここまできたとです。
柿の木がみたかったとです。
昔は、道行く子どもに柿の実やまんじゅうばあげたりして、げんきねえとかいっとるだけでよかったとに。
今は、コの字の中で一人で、食べるときも誰ともしゃべらんで。
みんな歩行器ばつけたり、車いすに乗ったりしとる。
自分だけ、百歳に近いとに、歩くのだけはしゃんしゃんしとりますけん。


係の人は、なぜだか、泣きそうな顔になった。

百歳まであと少しの老人は、耳は聞こえにくいが、目が強く、言葉もしかりで、軍隊帰りの心意気で、背筋もぴしゃっとしておった。

年金はすぐなくなってしまいよるし、朝昼夜、飯ば出してもらえるのはありがたかことやけど、昼飯を今日みたいに食べんときでも、引かれるけん、できれば昼は最初から数にいれんでくれるとありがたいとやけどね。

老人は、二食食べれば事足りるという。でも、女性はようたべよんしゃあ。三食しっかり食べよんしゃあ。すごかですよ。

係の人は、泣きそうになりながら、少し笑った。

柿の木はまだあるんやろうか。気になっとうと。

家はつかいよらんけど、あの木は、あの柿の木は、まだあるかもしれんけん。

見に行きようと。













by akikomichi | 2015-06-30 23:58 | 詩小説 | Comments(0)