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『草刈りのあと』五


人は、欲望に囚われ、死に至る。

山田の地蔵さんの惨劇もしかり、墜落死するのもしかり、首をかききられることもしかり。

欲望の末に、惨殺されたものに残された復讐に濡れた怨念は、刺し違えぬ限り、それ以上のものを奪いつくすことであった。

今も昔も変わらず、そこにあることの意味を超え、時空間をも超えるには、何より、そこに根を持つことばが必要であった。


曹洞宗 山田の地蔵尊 増福院縁起 より。
通称「山田のお地蔵様」といわれる増福禅院と秘仏六地蔵尊の由来とは。
天文二〇年(一五五一年)。
宗像大宮司家第七十八代氏雄卿は大内氏の随臣として長州黒川(山口県)に土地を与えられ其処に住んでおられた。
その年の九月朔日、大内義隆公も逆臣陶晴賢(すえはるたか)に、長州深川の大寧寺に攻められ戦い破れ自害された。
その時、氏雄卿(菊姫様の夫)もまた、戦死された。
本国筑前宗像の地には正室菊姫がおられ、母堂の山田局と共に、この山田の里の館に住んでおられたが、同月十二日、陶晴賢より差し向けられた御父君正氏卿の妾腹の子なべ寿丸(後の七十九代氏貞卿)が、突然宗像に乗り込み白山城に入城してきたのである。
領地六万石を横領せんとする晴賢の策略である。

天文二十三年(一五五四年)三月二十三日「月侍の夜」、寝返りした石松但馬守は腹心の野中勘解由、嶺玄蕃等を従えて、山田の御殿に乗り込み、菊姫御前を始め、山田局をも刺殺し、また立ち向かった侍女の花尾の島、三日月、小夜、小少将の四人も討ち果たしてしまったのである。
時に、菊姫一八歳、母堂山田島は五十三歳であった。

今日、菊姫が愛用されていた古鏡、貝合わせなどが増福院に秘蔵されているが、それらは今もなおみるものの涙を誘うのである。

その後、この六大の婦女子の怨霊の祟りはものすごかったという。

嶺玄蕃が鞍手郡蒲生田にある馬頭観音に参詣した帰り道のことである。
領内冨地原の赤木峠にさしかかった時、夕日のざしの中に、血に染まった山田の後室と花尾の局の姿が突如として浮かび上がった。
玄蕃は恐れおののき震えわななきながら吉留村の自宅に命からがら辿り着いたが、程なく息絶えた。家族の大方も、同じように苦しみながら悶死した。

その話を聞いた野中勘解由は、次は我が身と加持や祈祷で難を逃れようとした。
在る夜、夢の中で後室と花尾の局に責め立てられ、翌日急死した。
家族七人もまた、七日の内に死に失せた。


石松又兵衛(但馬守)は『山田地蔵由来記』によれば、怨霊に取り殺されたとされているが、『筑前国俗風土記』「山田」の記述では、その名を但馬と改め、氏貞の死後、剃髪し可久と号したともいわれている。



おもひやれ、とう人もなき山中に
かけひのみづの こころぼそさは

             <菊姫様辞世の句>


きくのはな ちりゆくもののちにそめし
かいあわせのち 古鏡あわせ
by akikomichi | 2015-02-26 21:52 | 小説 | Comments(0)