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水俣・福岡展

水俣・福岡展に伺った。

「私と水俣病」ー患者さんのお話から、ということでチッソで働いていたお父様を急性激症型でなくし水俣病と向き合い続ける吉永理巳子さんのお話と、吉永さんが幼い頃から暮らす水俣に足を運んで見てきて実感したことなどを反原発運動や震災後の被災地などとリンクさせての小熊英二さんのお話をお聞きした。

印象に残ったお話として、吉永さんの家に来た猫の話があった。

市の係の人?だったかが、猫を連れてきて、そこで飼ってほしいと言って、五百円をお小遣いとして渡して帰ったという。

子供の頃のことなので、何気なくもらった五百円はお母さんに貸したなどと言われていたが、後に『水俣の啓示 不知火海総合調査報告』(筑摩書房)という本の中に、その時の背景が書かれていたという。

猫がどのようになっていくか、調査をしていた。
吉永さんの家に来た猫は、掘りごたつの中で、奇妙な鳴き声で泣くかと思えば、ひくひくと腰が抜けたようにこたつから這い出て、庭に出てくるくるまわりながら死んでいったという。
海に近いことから、漁師の家では魚をさばく時、猫が寄ってくると頭のほうを投げてやり、それを食べたりする猫に、症状が出てきたりすることを見越してのものであったのか。

海に魚が浮いていたという。
それを見ていたものは、魚が、海がなにがしかの変調をきたしていると気づいていたものもいたらしいが、それがチッソから排出されるものだとは、はっきりとしていない時でもあったらしい。

1956年5月1日に「水俣奇病」の患者として認定されたお父様は一度入院して、水銀中毒によって起こるとされる水俣病という病名もないときに、点滴やいろいろな処置をして、なんとか回復の兆しが見え、退院した後、魚が危険であったことを知らず、食べ続けたせいか、退院後しばらくして亡くなったという。

吉永さんがまだ五歳の時であった。

慶應義塾大学の歴史社会学者の小熊さんの視点からすると、ナマのお話と言うよりも現象としての水俣を見ようとされているようであり、悲しいお話で終わってはいけないというような、ある種の使命感のような未来を考える方向で、言ってみれば負の遺産としてではなく、負から生み出されたそこから、生きられるようにする仕組みを模索されているように見えた。

津波や原発の被害にあった人たちの現状を見越しての、水俣モデルのようなものを確立して欲しいという願望でもあったように思う。

又、水俣病は社会の病とも言われていた。

毒を食らったか食らってないかにかかわらず、我々は遅かれ早かれ死んでいくものであり、なにも死に行くことが水俣病だけに限ったことではないとも。

線を引く難しさと分断についても何度も話されていた。

おそらく反原発の渦の中でおこっていることも同じようなことであろうと思われた。

どこからどこまでが救済の対象なのか。そこで線引きされることによって、線のこちらと向こうとの分断が起こることを懸念していた。

辛いことばかりの運動では続かないという事も言われていた。

友達に会いに行くように運動を続けること。もひとつの手だと。

それに吉永さんもいくらかの希望を見出そうとしていたように思われた。
Commented by i-i at 2013-05-24 07:27 x
私も昨日、会場で話を伺いました。
目を背けてきた水俣病に向き合おうとした頃、聞こえた<お父さんの声>
水俣の海にずっと話しかけておられたという話・・・どれも心に残りました。
Commented by akikomichi at 2013-05-24 07:41
ああ、そうだったのですね。
お顔を知っていればお会いできお話できたかもしれませんね。
それでも、いつか、またお会いできそうな気がします。
それにしても、水俣病と向き合うことが、地元であればあるほど重くのしかかる。
自分が水俣で、水俣が自分。というような思いを強く感じました。
これからもそこで暮らしていく覚悟というより離れられないものがあるのでしょうか。
ならば、そこをなんとかしていくしかないというような切実さもなおさらですよね。
Commented by ワーデル at 2013-05-24 10:35 x
講演会のお話を有難うございました。
「友達に会いに行くように運動を続ける」視点は、持続の一助になるかと思います。
Commented by akikomichi at 2013-05-24 12:00
ワーデルさん

こちらこそ、お言葉ありがとうございます。
>「友達に会いに行くように運動を続ける」視点は、持続の一助になるかと思います。

実践できればとおもいます。
by akikomichi | 2013-05-23 23:29 | 短歌 | Comments(4)