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『一人一殺』三

 フロッグコートの下では、一体、何人の血が流れたのであろう。

 日本人の血か、それとも日本人に成済まし、日本を戦争に向かわせたものの血だったのか。

 何も知らされない日本人は未だに騙され続けている。
 
 国際的バランス感覚がないだとかいいながら、日本国民をないがしろにすることのみを押し付けて来たどこかの大学の教授がきれいごとを言っているうちに、乗っ取られている訳だ。

 ネット上では見事に言論統制が轢かれている。いつのまにか、その手の情報にアクセスできないようにしている。

 都合が悪ければ、難癖つけて、捕まえられるのである。その手の勢力によって。

 この事実を知らずして、日本人を語るわけにはいかないということもある。

 日本を煙に巻く大蔵省と日銀を動かしていたIPRの繋がり。
 そこに井上準之助はいたのである。
 井上準之助はキリスト教徒ではないが、IPRの重要な役割を担っていた。
 そして、日本の金融の基礎を作った人の一人とも言える。
 一人一殺の標的としては、これほど、繋がりを体現した人はいなかったかもしれない。
 と、思っていた人物であった。
 ゴルフを日本に紹介したのも井上であった。


 「日本が亡くなってしまうかもしれない」


 と、意味深なことを語っていたと言う、癌で亡くなった咸宜園のある日田出身のアナウンサーも頻繁にここを訪れていたと言う。
 日本が亡くなってしまうという言葉もなぜ、彼が放つことが出来たのかも奇妙だが、彼の屈託のない笑顔の写真を見せつけられると、その奇妙な言葉の意味が真実味を増し、不気味さが増した気がした。

 井上準之助の育ての親が日田の咸宜園に学んでいたという。
 地理的にも近しく情報も行き交える関係の可能性を幕末のとある私塾を通じて見ることが出来る。


 どこかで、そのことを決められ、それを聞く機会があり得るポジションにいる、報道関係のものたちである。

 まさか、こんなところで、その死の残響を見せつけられるとは思ってもいなかったが、これも幼い頃、戦争を体験したものが嫌というほど、無意識的ともいえるほど、死臭を嗅ぎ付けてしまう故であったかもしれない。


 「井上が生きていたら、日本は戦争に駆り出されることはなかったかもしれません」
 

 井上の子孫の妻はそっと、ささやいた。


 確かにそうだったかもしれない。

 が、今の日本と同じ世界が間接的にやってくるだけであったようにも思う。


 ハチの一刺しとニーハオというお酒をぶっかけられたのは、日本人か、それとも韓半島や満州やの日本の一部に根付いたものの夢の国、「大東亜」の国を夢見たものたちであったか。

 彼らは今も、同じ動きをじわじわと進めているのだけは、確かである。

 いつその「仮面」をひん剥くかだけである。


 田母神論文でも指摘されていたと言うが、それは事実であろう。




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 以下参照。


 [田母神論文]に関するものであるが、これからどう動いていくか。
 動かされていくのか。
 国家公務員、自衛官であっても、その根が何処に根付いているかによって、発言が変わってくるものもあるであろう。
 一方的に消されていくものには、抵抗する。
 それでこそ、本当の意味での、バランスが見えてくるものである。
 あらゆる行動の意味が、分からないままでは世界を知ったとは言えず、それを少しでも知る必要がいままさに必要である。

 


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田母神氏の論文に対して、浜田氏が説明責任を通せと言うのであれば、こういう過去の情報
を政府が発表し、事実を認める必要がある。この資料を無視して政府と浜田が勝手に政府見解だと
言われても困る。浜田氏の見解は論文でも何でもなく、また資料でもないただの発言である。
発言や思想だけで更迭するとは国家権限の国権乱用に当たる。よって今度は浜田氏を質疑し、
ことの真相を語れるのかを国家で調査すべきである。

しかの資料は、当時政府と軍部で流行した基督教学派による国家テロの記述であるが、
早稲田大学にある政府資料の中には、基督教内閣と議員と組織を通じ、アメリカの指令で
日本を正式に敗戦させたと説明している事実がある。これらはテロの工作によって煽動された
大東亜戦争の結末であり、あの戦争をさせていたのは、何を隠そう、英米の作戦であった
と正式に書かれている。ということは、侵略ではなく、「キリスト教徒達によって侵略させられた戦争」
であったということがわかるだろう。

「賀川豊彦 小川清澄 斎藤惣一 キリスト教徒」で検索すると、正式に基督教の革命を
行っていたという記述が次々と出てくる。さらにこの組織員のクリスチャン達は、英米の他、
朝鮮・中国・ソ連とも連絡を日本で取り合い、逐一日本に対して侵略させる計画をしていたと
在日架橋の大物組織も過去の自慢として発表しているが、政府と左翼はそれすらも無視している。
ようするに、この政府にとっては、基督教に刃向かう連中と軍人は、如何なる理由と道議が
あろうとも、完全に敵なのであると正式に表明しているのである。だから教科書にも
基督教の学徒と教員、また左翼ゲリラの基督教組織だけは如何なる戦争行為を謀略しても
罪に問われることはなかったし、またそれが教科書に掲載されることは戦後一度もなかった。
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以下の内容には、基督教に革命を実行した連中達であったが、キリスト教徒が自供しているにもかかわらず、
日本政府は何も対応を今までとってこなかった責任が、奴らの国際犯罪の温床となってきた。
さて当時の閣僚と軍人には何人のキリスト教徒がおり、作戦を失敗させていただろうか。
また何故基督教軍人の組織に限り、次々と戦闘行為を計画し、開戦を勃発させていたのだろうか。
という論点に立つことも必要である。しかし、アメリカも現在は基督教の国であり、
他国の多くが、仏教や神道ではなく、基督教国であるにして、他国の理論と日本の理論が
当時からまったく違う観点で動いていたということがわかる。さてこの白人系キリスト教徒達の思想には、
自分たちが基督教徒であれば、奴隷貿易や麻薬漬け作戦なども正当だとして過去に何度もテロや
謀略戦争を行っている。これを国際裁判や国連軍で裁いた事はない。よって現在の日本に対する
言われ無き汚名の数々は、国連が定めているキリスト教国ではないがための、差別運動であり、
世界にとっての犯罪国家=神道国家だと説明しているに過ぎない。この観点が無ければ、永遠と
敵国を理解することは不可能である。
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IPRは、太平洋地域に存在するか、同地域に関係を有する国々に支部を設け、各支部が
常時同地域が抱える問題について研究し、その成果を隔年か3年毎に開催される
国際会議に持ち寄って理性的に討議したり、会議終了後には、その成果を各々の国に
持ちかえり、例えば政治家への政策提言、国民への啓蒙といった形で影響力を発揮しようとした。  
会員は、各界で影響力を持つ一流の人々が個人の資格で参加した。日本の場合には、
渋沢栄一、団琢磨、井上準之助、横田喜三郎,前田多門、沢柳政太郎、松岡洋右,
高木八尺等である。米・英・中・朝・豪・ニュージーランド等の場合も、同様に一流の
人々の参加をみている。
取り扱ったテーマも幅広くかつ多様で、移民問題、中国の不平等条約問題、生活標準問題、
アジア太平洋地域の安全保障問題、満州問題、貿易摩擦問題、資源問題、教科書問題等である。
それらの研究・討議を通じて、?優れたアジア研究者を育成したこと、
?育成されたアメリカのアジア研究者が太平洋戦争勃発後に国務省に入り、
対日戦勝利に向けての政策立案や対日戦勝利後の対日占領政策立案に従事したこと、
?IPR設立の当初から女性の登用を積極的に行ったという先駆性も見逃せない側面である。
われわれは、これまで主として戦前期IPRに関する資料の蒐集、論文紀要の刊行、
国際学会での研究成果の報告等を行ってきた。しかし、戦前期IPRについてす
べてカバー出来たわけではない。日本支部を除く他支部についての活動内容、
アメリカIPR会員の戦時に於ける対日政策立案、対日占領政策立案、戦後のIPRの活動、
その意義等に関する研究については、ほとんど手つかずのままである。また、
各国でIPR活動に参加した人々が著名人であったのでの、IPR人名録の作成も、
IPR研究の基礎資料として、作成をする必要がある。


昭和研究会は昭和十一年頃後藤隆之助が個人的に創設したものでありますが同会には
創立当時より蝋山政道が関係し同氏と友人関係にある朝日新聞論説委員、佐々弘雄も関係を
持って居りました。当時支那問題の重要性は愈々加わり昭和研究会内にも支那問題の
研究部会を創設し之に支那問題の権威者を参加せしむることとなり、佐々と友人関係に
あった私は同氏の紹介に依り昭和十二年四月頃同会に参加しました。私が参加した当時の
支那問題研究部会の責任者は風見章氏でありました。同氏とは既に一度会ったこともあり
此の部会に参加することになって極めて親しくなりました。
間もなく同年六月近衛内閣の成立と同時に風見氏は内閣書記官長に就任し同研究部会の
責任者の地位を去ったので其の後は私が代わって
責任者となり約一年間は其の儘継続して月一回会合を開いて居りましたが、
其の後同部会は東亜政治部会と改称され次で民族部会となり昭和十五年九月の解散迄及んで来ました。

最初の支那部会の顔触れは、風見章、田中香苗、中村常三、尾崎秀実、其の他四、五名。
東亜政治部会になってからは、責任者尾崎秀実、岡崎三郎、平貞蔵、小林策次郎、和田耕作、
大西齊、土井章、樋口弘、事務局員堀江邑一、大山岩雄、溝口岩夫。民族部会になってからは、
責任者尾崎秀実、岡崎三郎、橘樸、和田耕作、平貞蔵、原口某、平館利夫、山本二三丸。
事務局員川合徹等でありました。

又昭和研究会には外交部会があり其の責任者は初めは矢部貞治、最後は外務省の湯川盛夫と
なりましたが会の顔触れは、矢部貞治、湯川盛夫、永井元駐独大使、伊藤述史、内田壽雄、
佐々弘雄、益田豊彦、牛場信彦、牛場友彦等で私も昭和十五年から委員となって居りました。

尚昭和研究会には全部で十二の部会があり私は二部会に関係して居たのですが各部の
連絡を円滑にする為昭和十五年八月頃各部会の連絡部会が設けられ私も民族部会の責任者
として毎月一回開かれる此の会合に出席して居りました。


蝋山政道は以前より近衛公のブレーンの一人として知られて居り、平貞蔵は満鉄大連本社で
岸と同僚の間柄に在って親しい仲であり、佐々及び笠は朝日新聞社に於ける私の同僚であった
上に佐々は、蝋山、平とは旧友の間柄にあり、又渡邊は岸と高等学校以来の友人関係にあり
尚西園寺は牛場とオックスフォード大学以来の友人で私とは特に親しい関係にありました。
此の顔触れは牛場、岸及び私が其の周囲から選び出した人達で何れも実際政治に深い関心
を持っている者であります。

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特急電車を3分とめる 1941年、日米間の関係が悪化し、太平洋の風雲急なる時、
日本基督教連盟(原罪のNCCに当たる)では代表8名を選び、米国訪問することになった。
外務省(近衛内閣)に話したところ大賛成だったので、実行することになったが、費用がなくて
困っていた。その時、主婦の友社社長の石川武美氏が費用全部の援助を申し出たので、
この企てが実現した。 代表の氏名は【賀川豊彦】、小川清澄、【斎藤惣一】、小崎道雄、河井道子、
松山常太郎に私を加えて7名で、在米の湯浅八郎氏がこれに加わった。一行の代表は私であったが、
最大の存在は賀川であった。その年の3月初め、一行は米国に出発した。
当時私は日本基督教団設立の準備委員長であったので、用務を片付けてから、
少し遅れて賀川とともに船で横浜からシャトルに向かった。シャトルで賀川ととともに
同地の牧師会に招かれ、挨拶をかねて、日本における神の国運動の事情を報告した。
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1937年7月の日中戦争への拡大に応じ8月第1次近衛内閣は「国民精神総動員指導方針・実施要綱」
を閣議決定した。 9月28日、基督教女子青年会日本同盟、全国友の会、【日本基督教婦人矯風会】、
日本女医会、日本消費組合婦人協会、婦人同志会、婦人平和協会、婦同が日本婦人団体連盟を組織した。
2月13日には南京事件が起こされていたが、この動きを主導した市川房枝は「婦人参政権の要求は
今日の時局に於いても私共は毫も変わらない。...然し緊急を要する各般の事項運動に対し、
婦人の立場より」国民精神総動員運動への参加協力を表明していた。

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by akikomichi | 2012-06-04 11:30 | 小説 | Comments(0)