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陰陽の時

満月の夜が美しかった。
次の朝。
陽の登る時を見た。
それから、陽の暮れる時を。
山の向こうから登る陽と山の向こうに暮れる陽とを。
殊の外、美しかった。
忘れられない陽である。

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by akikomichi | 2017-04-13 21:27 | 詩小説 | Comments(0)

「解かれた束」

報道の束が解かれ
報道が束になって押し寄せていたとき

ペットボトルと線香の束は解かれ
波に乗って押し寄せてくる夢を見た

煩悩の二つ手前の
ゴミになった空洞の報道と湿って煙も立たない祈りのようで










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by akikomichi | 2017-03-27 04:23 | 詩小説 | Comments(0)

『美しい星』と「円盤」

『美しい星』を見ていた。

もっとも、三島由紀夫の書いた『美しい星』の方であったが。

「円盤」の目撃情報が昔から多々あったという、千貫森を抜ける道すがらの夜に、いわゆる「未確認飛行物体」なるものを、自分の肉眼で見てからというもの、度々、「磁場」の特異性における「時空間の底の抜けた状態」のようなものがあるところには、そう言ったものが浮遊する可能性はなきにしもあらずではないか。と思うようになった。

三島の描いていた『美しい星』の中に出てくる「円盤」とほぼ同じ形と思われたが、色は黄色味を帯び、するりと、車のフロントガラスを流れる先の細くなった三角錐の金属の光を放つ水滴のように、するりと、左斜め下にゆっくりと降りて行ったのだった。

それを見る前に、もし今日、「円盤」を見ることができたならば、その存在はあるということを認める。

と心の中で、強く思っていたのもあった。

それが伝わるものがいるとしたならば、それは、確かにいると思われたのである。

そうして、その「円盤」は、私の前に現れたのである。

美しい星を見るように。

私はその「円盤」を見ていた。


三島の『美しい星』の中の家族は、自分たちが、それぞれ火星人や金星人水星人や木星人と思っていたのだが、その確信はどこから来たのかには、漠然とした物言いで、きたものは来たのだとしか言いようがないように、断定仕切っていた。

そもそも、我々は宇宙人であるということが、言いたかったのだろうかとも思われたが。

仮にここに住むものが地球人だとしても、宇宙の中にいる限り、宇宙人であるには違いはないということ。

あるいは、事象の由来が、人間の由来が、神のようなもの、あるいは、魂の由来が、そこにあるとでもいうことであろうか。

などと思いながら。


それとは全く別なこととして、想像ではなく、三島は、いわゆる「円盤」を見たのであろうか。

ということが、無性に気になってきた。

もし、見たとするならば、どこで見たのであろうか。

ご存知の方がおられたら、ぜひ、教えていただきたい。


三島は、人類がたどり着くであろう、核の釦が押されようと押されまいと、いずれは寿命として、燃えつきるしかない地球に限らず全ての星々こそ、『美しい星』だということを、その幻影がいつもそこにあるのが今の地球上の全ての生きとし生けるものであることを、語っているようにも思えたが。

何より、我々は地球人でありながら、金星人であり、木星人であり、水星人であり、火星人でもあり、その総称を宇宙人ということを、一個の「円盤」が現れることによって、指し示したように思うのである。

いろいろな『美しい星』がある、いろいろな『美しい星』があった。と。



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by akikomichi | 2017-03-21 18:30 | 詩小説 | Comments(8)

「子供の頃の自分」


子供の頃の自分にあったことがあるか。

と、不意に、本当に不意に、道を歩いていると、女の人に聞かれた少女がいた。

少女は、本当のところ、家の窓から覗くように、自分の子供の頃にあって、二人で一人のように、親子のように、目の前で肩を組み歩いていく似姿、もっとも凸凹ではあったが、を見たことがあった。

が、その女の人が、そのことを知っていて聞いているのか、知らずに聞いているのか、気になったので、本当のところを話していいのかどうか、考えあぐねていた。

あなたはどうなのですか。

少女はその女の人に聞いてみた。

女は、本当のところ、家の窓から覗くように、自分の子供の頃にあって、二人で一人のように、親子のように、目の前で肩を組み歩いていく似姿、もっとも凸凹ではあったが、を見たことがあった。


それが、自分の身に起きることとは毛頭考えてもみなかったが。

時間のねじれなのか、時間の底には、幾重にもなった自分が重なって、時として、その生きた時間の底が開いたように、であってしまうということがあることを。


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by akikomichi | 2017-03-19 07:47 | 詩小説 | Comments(0)

「六年」

六年たったのだ。

八百屋でイチゴを買っていた時に、起こっていた東日本大震災から。
最初に爆発の話を聞き、それから尋常ではない津波が押し寄せてきたということを知った。

父がちょうど、私の家に来ていた。
行くあてがない半身不随の父であった。
母のいるところへは、いけない様々な事情もあった。
父は言うなれば拠り所のない人であった。
いや拠り所はいくつかあったのだが、そのどれにしても、終の住処ではなかったということであった。
今までいたところにもいられなくなり、針の筵の、父にとっての娯楽はない、居心地のあまり良くない我が家へ一時的にでも避難していた時のこと。

あの日、洗濯物を干している私に、一日に一度は外に出ないと死んでしまうという父の願いを聞いて、介護と子育てと寝不足で疲れきった体を鞭打って、外に出ていた時であった。

何もかもに疲れきって、何もできない無力感と悔しさが自分の内でも外でも、同時多発的に起こっていたのだった。


あの震災とは、一体、何だったのであろうか。

当初から、あまりに桁違いのことが重なり、揺れがあまりに尋常でないことや、津波の起こり方の不自然さからも、また、電離層の何らかの人工的な介入を指摘する声もあり「人工地震」ということを実証できる段階に来ている今、ごまかすことは、これからの世界にとって難しく、本当のことがわかることが、何より次の震災を食い止めることになるであろうことを思う。

実際に、人工地震を起こすことができるのは単純な北朝鮮の核実験で認証済みであるので、それをこそこそと海底に仕掛けるくらい朝飯前である者がいるのは言うまでもなく、どこの誰に責任があるかは、後の世が必ず教えてくれることであろう。

いずれ後の世になって、心ある者たちから、心ない者たちは血祭りにあげられることであろう。


このような狂った世界において、唯一、救いだったのは、そこで暮らす人たちのいき様であった。が。


日本が狂っているのではなく、その地震を起こしたものがそもそも狂っており、何よりその地震が起こって、狂喜乱舞していた近隣諸国の、韓国のいやらしい行為、痛手を負った日本に唾を吐きかけるような日本の竹島への不法侵略や東日本大震災を祝うなどという垂れ幕を垂らすサッカーのサポーターや、東日本が大変なことにつけ込んで嬉々として土足で踏み込んでくる盗人猛々しく船に乗って日本の尖閣諸島に攻め立ててくる、狂った中国の集団が、すぐそこにいたことに、それまで、それほどまでの悪意を見たことがなかった戦後生まれの何も知らなかった私を含めて、それらの何とも言いようのない悪意を知った日本人は愕然としたのであった。

その時に、断固抗議もせず、ただ押し黙って、仕方がないと、やりたい放題する者のなすがままにしていた者たちを見ていた子供達は、薄っぺらい正義など信じなくなったとしても、当然のことである。

まだ、立ち上がって声を上げた、残される家族を思って死ぬ前に立ち上がった老人の方を信じることができたのである。

むざむざと、やられているわけにはいかない。という老人の方が、六年経てばすっかり何事もなかったように、ヘラヘラ笑って、飼いならされて、俺たち仲良しですよね、俺たちはなし合えば仲良くできてますということになるらしいもてなされてホイホイ国を売る自称知識人よりも、信頼できたのである。

そのような自称知識人が、老人たちを攻め立てている今の日本のいびつさこそが、そのまま、日本の戦後なのだとようやく見えてきたところであったのだ。


東日本大震災の後、国というものは、脆いということを思うようになった。

日本は、半分、失ってしまったのではないかと思ったのだ。

あの時。

そこに住む人たちがいて、国というものがあるということもまた思う。

悪意のある世界があろうとも、そこに住む人がいる限り、この世界は続くのだということも。




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by akikomichi | 2017-03-11 22:20 | 詩小説 | Comments(0)

「蝶よ蛾よ」

窓のすぐ近くのカーテンにいたセミのような蛾。

あれは、ひぐらしに寄生するというセミヤドリガだったのだろうか。

セミのようでセミではない、卵から幼虫、蛹、成虫へと完全変態を遂げた、セミの抜け殻ではなくセミそのものを取り込んだもの。

あるいは、飼われていたカイコガが、奇跡のように煮られることなく、吐いた絹の繭を身ぐるみ剥がされることなく、自分で繭の殻をつきやぶり、這い出てきて、そこにいたのだろうか。

友達が死んだのは、三年前のことだった。

彼女は黄色い羽の生えた蝶々のような着物を着て、花に囲まれて、棺の中に眠っていた。

彼女は美しいものに囲まれて暮らそうとしていた。

美しいピアノ、美しいヴァイオリン、美しいレンガの門のある庭、美しい薔薇の似合う花壇、それから、美しい整えられた顔と所作と着物と。

人が作り上げてきた美しいものたちに囲まれて、彼女は暮らそうとしていた。


彼女は、今、この世にはいないのだが、時々、黄色い蝶々を見つけると、彼女のことを思い出す。

いや、彼女のことを思い出している時に、黄色い蝶々が飛んでいることがあった。

プシュケーは魂で、天使で、蝶々のようなものの象徴とユングは言っていたが、彼女の魂がもしあるとするならば、そういう軽やかな化身であってほしいと思うが。


蛾は、さすれば、現生の私の魂のようなものかもしれないと思う。

かき集めた茅をまとったミノムシのように、この世にぶら下がったままの魂は、今、春に吹かれているところ。


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by akikomichi | 2017-03-06 16:57 | 詩小説 | Comments(0)

宮崎滔天の夢は儚く散りて
玄洋社記念館にあった孫文の書も何処にか行かん
日本に助けを求めしものをかくまいし者たちへの
答えとは冷めた仕打ちであったとは
みようとはせず知らぬふり
漢の文をば捨てたとはいえず
息衝きあるものを
生かしてあるだけのことであれ

大東亜戦争時のその後の
東日本大震災時
執拗に尖閣狙った中国のものには
だまりこむばかり
売国奴には呆れ果て
信用できず
何もせず開け渡せばいいというものたちの
気色の悪いものたちの
信用できず

その言葉その行動は売国の徒であるとしか思われず
日本のためには働かず
日本を辺境と言い張り売文書きなぐり
嬉々とし頭を垂れ続けておれば良いなど言いはなち
その心根のあさましき
杖を振りつつ
忙しくしているだけの亡国の徒とは
いかにもあさましき





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by akikomichi | 2017-03-01 19:19 | 詩小説 | Comments(0)

「茅葺への道」

昨日は1日かけて、自分だけ先に仕事場近くに移住するための家を拝見しに行った。

子供達と夫は自由意志で、学びの場とも近しい方にいるということで、しばらくは行ったり来たりの家族生活となるであろうが、いずれにせよ、それぞれ自立していくものでもあるので、それが少しばかり早まったというだけであろう。

子供達への学費も生活費も賄うためのものなので、それも、含めての、それぞれの自立が必要ではあった。

彼らも自分の出来うる限りの事を自分でできるようになっていく時期に来ているということ。

家族として人として彼らのことを愛でることには変わりはないが、おそらく、自分だけ無性に寂しがることになりそうではある。
友達が近くにいることが救いであるが。

山奥に案内していただき、たどり着いたのは、茅葺の屋根に覆われたとトタンのお宅であった。

一部トタンに穴があり、時間との戦いがもう始まっていた。

井戸もかまどもあり、部屋も多すぎるくらいの立派な造りであった。

五右衛門風呂もあるということで、子供の時じいちゃんの家で入らせてもらって以来のものであり、心惹かれた。

ご先祖様のお墓も近くにあるらしく、ここに暮らしていた方々にとっては、安らぎの、安心することのできる長らく守り続けた場所であったのが、見て取れた。

川の流れも近く、昔は、木々に囲まれていたこともあり、炭焼きなども盛んであったという。

畑も、田んぼもあるので、すぐに、住める状態であったなら、すぐにでも移るであろうが、春先までに改修は困難であるのは明白で、空き家の時間が長かったことが悔やまれる、茅葺の半分眠った家であった。

こういった家を再生し、自分もそこに住むことで、また茅葺を生かしていく手立てを見つけていくことにつながるならば、自分にもできることではあるので、まずは仕事場に近いところで、それを出来うる力をつけて、ゆくゆくは、こういった時間との戦いの家にも手を入れていくということが、目の前にある、自分のできることであるという思いがますます強まってきていた。

家もどんどん年をとる。

人もまた。

時間との付き合いも、自分との付き合いも、これから、じっくりと深めていくことになりそうである。




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by akikomichi | 2017-02-27 12:56 | 詩小説 | Comments(0)

準備

うろちょろしたり
考えたりする
準備のための準備
いつか行った場所も
これから行く場所になる
準備のための準備
健康診断も
生活用品も
準備のための準備
書類作成も
書類手配も
準備のための準備
次の次の次にもつながっていく
準備のための準備




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by akikomichi | 2017-02-20 12:45 | 詩小説 | Comments(0)

当時の三島と白蟻の巣と





たまたま、ばあばのお見舞いの帰りに最近できた古本屋に行くと、三島関連の本が2冊あったので、手に入れた。

当時の三島を知る人の声を聞くということは貴重である。

三島に対するレクイエム、あるいはお別れの言葉のように読んだ。

一つは筋肉つながりの無邪気な健全さで綴った今村氏のもの。

もう一つは空想・妄想ではあるが肉感的な三島を描いて見せた武智鉄二氏のもの。

前者は自身の体験に即したもの、陸上からボディビルへと向かった青年時代に出会った三島の、彼の知る姿をそのまま描いていた。

後者は、少し艶かしいエログロナンセンスさと時代を描きながら、なぜか三島の転生を思わせる最後を持ってきていた。

後者は三島の生首がすっ飛んで将門にあったり、首のない体だけが暴れて動き回るような荒唐無稽の物語ではあったが、生前、関わりのあった人を訪ねたりするところが妙に人間臭く、彼の中にある三島像として、迷いのある三島の混沌とした状態を思い描いていたものと思われる。

武智氏はエロステキ映画を作ったり歌舞伎にも通じているところがあったようで、そこいらも存分に描いていたが。

それにしても、やはり、偶像としての三島のようで、彼の内なるもの、彼の言葉やその言葉と血肉とも通じたものから発するものとはどこか質が違うようにも感じられた。


そういえば、今度、三島の「白蟻の巣」が舞台であるという。

彼の作った白亜の家の中にも、彼自身の中にも、白蟻がすくっていたのだろうか。

などと、漠然と思い描きながら、昔、見た夢を、三島の首のない体が、彼の西洋風な家の階段を、この野郎と怒りながら降りてきた、奇妙な夢を思い出していた。

彼は何をそんなに怒っているのか、と何も知らずに、ただ訝しく思っていたのだが、その当時の自分は、世の中のことを、それから起こることをあまりに知らなさ過ぎたことに気付かされるきっかけとなった夢であったのだった。

それからというもの、腹を割ってでも、首をかき切ろうとも、彼の思い描いた「国」を守る。ということは、どういうことなのかを、ずっとどこかで考え続けているのだが。

偶然、あの夢の続きのような、三島の首が目の前で見つかったような、怒りの顔から発する表情の本意を少しでも読み取れるような気がして、思わず手に入れた古本であったのだ。


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by akikomichi | 2017-02-18 22:48 | 詩小説 | Comments(0)