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茅の旅と帽子猫のお迎え


一日 片付け
みちぎや足場板や茅を運ぶのも慣れてはきたが
肩に食い込む長いみちぎの重さがひりひりしてくる

あんまり長いので
透明な重りと見えない重い荷を天秤にかけているような
そんな気分になる

一輪車で運ぶバリカンで刈られた茅も
ちくちくするプラスチックの輪のようにてかり
隙間を埋めるだけ埋めて容赦なく重い

男も女も関係なく
重い荷物を運ぶのはいい
屋根に登って遠くを見ながら目の前の茅を屋根葺きできたらなおいい

湯布院から日田まで
一時間半ほどの茅葺の旅ももうすぐ終わり
次の現場に移動となる

新米の運転でつまり私の運転で帰ると
帽子猫が階段を上ってやってきた
まだ子供のようで
何してるのとじっとこちらを見ている

お家に入ってくるかなと思ったが
じっと招き猫のように座っている
ここで待っていてくれるなら旅もまたいい


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by akikomichi | 2017-04-27 20:05 | 詩小説 | Comments(0)

帽子をかぶり続けている猫がいた。
遠くからいつもこちらを見ていた。
近づくと帽子は猫の毛でできていた。
と言うよりも、猫の毛の模様なのであった。
いつも一階の窓のサッシをそろりと暖簾をかき分けて入るように家に入っていく。
家に帰ったからといって
ただいまを言いながら帽子を脱ぐことはないだろうが。
土足で入ることなく裸足でそろりと入っていく。
帽子猫が今日も駐車場の横の花壇に座って待っている。
何かを待っているように見える。
人が来るのを見ている。
夜が来るのを待っている。
そうして星が出てくるのが合図のように家に入っていく。

昨夜、友達の夢を見た。
なぜか赤い服を着ていつものように微笑んでいた。
不意に猫のように家のコタツに入り込んで伸びをした。
背中に何か硬いものを入れているようにいつもどこか張り詰めているように見えた
彼女は私の中では生きているのだと思った。
もう三年も前に死んでしまっていたが。
彼女は猫のような人であった。
近くにいても遠くにいるような。
時々思い出したように葉書をくれた。
今は彼女からの美しい文字のつづられた葉書は届かないが
私の夢に出てくるようになった。

彼女は蝶々のような人であった。
茅葺の屋根を日々作り続ける場所にいても
花を求めて舞あがり舞い散る蝶々を見ると
蝶々夫人のような着物を着て死んでいた彼女を思い出す。
彼女は死んでいながら私の中でひらりひらりと生きながらえていた。
私は世の中にある美しく整えられた蜜に集まる蝶々のような人と同じところにいながら
そこから見事なまでに隔絶した茅の場で
肉体の感覚を増殖しながら体の思考で生きながらえている。
体を動し続ける毎日で体にものを言わせて思考し続けている。
すべての記憶を頭だけではなく体にまで染みつかせているような。
強く茅と屋根の骨組みとを結びつけるアバカの紐のような毎日。

思ったことを手繰り寄せて現実化しているのだね。
と別の友人から言われた。
これが私の現実であるならば
今離れ離れに暮らす家族にとって
私は現実にはそばにはいない存在で
時折夢に現れる彼女のような存在であるような気がしないでもない。
死んだ者の面影のような。
あるいは懐かしいどこか鄙びたセピア色をしたもの。
夫を亡くしたセピアという人が服を着替えず
夫を思ってだんだんと薄汚れて色褪せていったのがセピア色というものの背景であると
最近教えてもらったばかりであったが
私は茅葺のあるところで記憶をつなぎとめながら
色褪せながら肉体化し体ごとそこで生きてはいた。
セピアのように死んでしまった人と家族と友人たちを思いながら。

子猫のように愛くるしい子供が茅の屋根に登っていくのを目を細めて見ているように。
茅を駆けずり回る子供がまた
その茅の屋根を守り受け継いでいくように
心の中で色褪せてはいくものの
時の風味を醸し出すものと生きながらえていくのだ。
争いには飽き飽きしながら。
生きながらえていくのだ。










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by akikomichi | 2017-04-23 18:57 | 詩小説 | Comments(0)

スケッチ

スケッチをしなさい。構造が分かるから。

Nさんに言われた。

描いてみた。そのものの全てではないけれど、そのものを線で愛でるように描く。

そうして、いつか、その形を作り上げていくのだ。

いろいろな形を描く。

いろいろな角度から。

いろいろな線で包み込みながら愛でるように。

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by akikomichi | 2017-04-18 21:52 | 詩小説 | Comments(0)

心を失わないようにするために
例えば水たまりの水を流すように溜まったものを膿むのではなく
頭上から落ちてきた一本の茅をすくい上げるように集めること

例えば天上から雷が落ちてきた震音を聞いても
どこに落ちたかわからないように
私たちは肌で感じながら生きてはいたが

知らない世界がつながっていくように
赤い太陽が沈む頃
家に帰り着くのだ

山の中にいながら
山の向こうを見るように
奥の奥をのぞむものなのだ



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by akikomichi | 2017-04-17 21:32 | 詩小説 | Comments(0)

陰陽の時

満月の夜が美しかった。
次の朝。
陽の登る時を見た。
それから、陽の暮れる時を。
山の向こうから登る陽と山の向こうに暮れる陽とを。
殊の外、美しかった。
忘れられない陽である。

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by akikomichi | 2017-04-13 21:27 | 詩小説 | Comments(0)

「解かれた束」

報道の束が解かれ
報道が束になって押し寄せていたとき

ペットボトルと線香の束は解かれ
波に乗って押し寄せてくる夢を見た

煩悩の二つ手前の
ゴミになった空洞の報道と湿って煙も立たない祈りのようで










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by akikomichi | 2017-03-27 04:23 | 詩小説 | Comments(0)

『美しい星』と「円盤」

『美しい星』を見ていた。

もっとも、三島由紀夫の書いた『美しい星』の方であったが。

「円盤」の目撃情報が昔から多々あったという、千貫森を抜ける道すがらの夜に、いわゆる「未確認飛行物体」なるものを、自分の肉眼で見てからというもの、度々、「磁場」の特異性における「時空間の底の抜けた状態」のようなものがあるところには、そう言ったものが浮遊する可能性はなきにしもあらずではないか。と思うようになった。

三島の描いていた『美しい星』の中に出てくる「円盤」とほぼ同じ形と思われたが、色は黄色味を帯び、するりと、車のフロントガラスを流れる先の細くなった三角錐の金属の光を放つ水滴のように、するりと、左斜め下にゆっくりと降りて行ったのだった。

それを見る前に、もし今日、「円盤」を見ることができたならば、その存在はあるということを認める。

と心の中で、強く思っていたのもあった。

それが伝わるものがいるとしたならば、それは、確かにいると思われたのである。

そうして、その「円盤」は、私の前に現れたのである。

美しい星を見るように。

私はその「円盤」を見ていた。


三島の『美しい星』の中の家族は、自分たちが、それぞれ火星人や金星人水星人や木星人と思っていたのだが、その確信はどこから来たのかには、漠然とした物言いで、きたものは来たのだとしか言いようがないように、断定仕切っていた。

そもそも、我々は宇宙人であるということが、言いたかったのだろうかとも思われたが。

仮にここに住むものが地球人だとしても、宇宙の中にいる限り、宇宙人であるには違いはないということ。

あるいは、事象の由来が、人間の由来が、神のようなもの、あるいは、魂の由来が、そこにあるとでもいうことであろうか。

などと思いながら。


それとは全く別なこととして、想像ではなく、三島は、いわゆる「円盤」を見たのであろうか。

ということが、無性に気になってきた。

もし、見たとするならば、どこで見たのであろうか。

ご存知の方がおられたら、ぜひ、教えていただきたい。


三島は、人類がたどり着くであろう、核の釦が押されようと押されまいと、いずれは寿命として、燃えつきるしかない地球に限らず全ての星々こそ、『美しい星』だということを、その幻影がいつもそこにあるのが今の地球上の全ての生きとし生けるものであることを、語っているようにも思えたが。

何より、我々は地球人でありながら、金星人であり、木星人であり、水星人であり、火星人でもあり、その総称を宇宙人ということを、一個の「円盤」が現れることによって、指し示したように思うのである。

いろいろな『美しい星』がある、いろいろな『美しい星』があった。と。



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by akikomichi | 2017-03-21 18:30 | 詩小説 | Comments(8)

「子供の頃の自分」


子供の頃の自分にあったことがあるか。

と、不意に、本当に不意に、道を歩いていると、女の人に聞かれた少女がいた。

少女は、本当のところ、家の窓から覗くように、自分の子供の頃にあって、二人で一人のように、親子のように、目の前で肩を組み歩いていく似姿、もっとも凸凹ではあったが、を見たことがあった。

が、その女の人が、そのことを知っていて聞いているのか、知らずに聞いているのか、気になったので、本当のところを話していいのかどうか、考えあぐねていた。

あなたはどうなのですか。

少女はその女の人に聞いてみた。

女は、本当のところ、家の窓から覗くように、自分の子供の頃にあって、二人で一人のように、親子のように、目の前で肩を組み歩いていく似姿、もっとも凸凹ではあったが、を見たことがあった。


それが、自分の身に起きることとは毛頭考えてもみなかったが。

時間のねじれなのか、時間の底には、幾重にもなった自分が重なって、時として、その生きた時間の底が開いたように、であってしまうということがあることを。


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by akikomichi | 2017-03-19 07:47 | 詩小説 | Comments(0)

「六年」

六年たったのだ。

八百屋でイチゴを買っていた時に、起こっていた東日本大震災から。
最初に爆発の話を聞き、それから尋常ではない津波が押し寄せてきたということを知った。

父がちょうど、私の家に来ていた。
行くあてがない半身不随の父であった。
母のいるところへは、いけない様々な事情もあった。
父は言うなれば拠り所のない人であった。
いや拠り所はいくつかあったのだが、そのどれにしても、終の住処ではなかったということであった。
今までいたところにもいられなくなり、針の筵の、父にとっての娯楽はない、居心地のあまり良くない我が家へ一時的にでも避難していた時のこと。

あの日、洗濯物を干している私に、一日に一度は外に出ないと死んでしまうという父の願いを聞いて、介護と子育てと寝不足で疲れきった体を鞭打って、外に出ていた時であった。

何もかもに疲れきって、何もできない無力感と悔しさが自分の内でも外でも、同時多発的に起こっていたのだった。


あの震災とは、一体、何だったのであろうか。

当初から、あまりに桁違いのことが重なり、揺れがあまりに尋常でないことや、津波の起こり方の不自然さからも、また、電離層の何らかの人工的な介入を指摘する声もあり「人工地震」ということを実証できる段階に来ている今、ごまかすことは、これからの世界にとって難しく、本当のことがわかることが、何より次の震災を食い止めることになるであろうことを思う。

実際に、人工地震を起こすことができるのは単純な北朝鮮の核実験で認証済みであるので、それをこそこそと海底に仕掛けるくらい朝飯前である者がいるのは言うまでもなく、どこの誰に責任があるかは、後の世が必ず教えてくれることであろう。

いずれ後の世になって、心ある者たちから、心ない者たちは血祭りにあげられることであろう。


このような狂った世界において、唯一、救いだったのは、そこで暮らす人たちのいき様であった。が。


日本が狂っているのではなく、その地震を起こしたものがそもそも狂っており、何よりその地震が起こって、狂喜乱舞していた近隣諸国の、韓国のいやらしい行為、痛手を負った日本に唾を吐きかけるような日本の竹島への不法侵略や東日本大震災を祝うなどという垂れ幕を垂らすサッカーのサポーターや、東日本が大変なことにつけ込んで嬉々として土足で踏み込んでくる盗人猛々しく船に乗って日本の尖閣諸島に攻め立ててくる、狂った中国の集団が、すぐそこにいたことに、それまで、それほどまでの悪意を見たことがなかった戦後生まれの何も知らなかった私を含めて、それらの何とも言いようのない悪意を知った日本人は愕然としたのであった。

その時に、断固抗議もせず、ただ押し黙って、仕方がないと、やりたい放題する者のなすがままにしていた者たちを見ていた子供達は、薄っぺらい正義など信じなくなったとしても、当然のことである。

まだ、立ち上がって声を上げた、残される家族を思って死ぬ前に立ち上がった老人の方を信じることができたのである。

むざむざと、やられているわけにはいかない。という老人の方が、六年経てばすっかり何事もなかったように、ヘラヘラ笑って、飼いならされて、俺たち仲良しですよね、俺たちはなし合えば仲良くできてますということになるらしいもてなされてホイホイ国を売る自称知識人よりも、信頼できたのである。

そのような自称知識人が、老人たちを攻め立てている今の日本のいびつさこそが、そのまま、日本の戦後なのだとようやく見えてきたところであったのだ。


東日本大震災の後、国というものは、脆いということを思うようになった。

日本は、半分、失ってしまったのではないかと思ったのだ。

あの時。

そこに住む人たちがいて、国というものがあるということもまた思う。

悪意のある世界があろうとも、そこに住む人がいる限り、この世界は続くのだということも。




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by akikomichi | 2017-03-11 22:20 | 詩小説 | Comments(0)

「蝶よ蛾よ」

窓のすぐ近くのカーテンにいたセミのような蛾。

あれは、ひぐらしに寄生するというセミヤドリガだったのだろうか。

セミのようでセミではない、卵から幼虫、蛹、成虫へと完全変態を遂げた、セミの抜け殻ではなくセミそのものを取り込んだもの。

あるいは、飼われていたカイコガが、奇跡のように煮られることなく、吐いた絹の繭を身ぐるみ剥がされることなく、自分で繭の殻をつきやぶり、這い出てきて、そこにいたのだろうか。

友達が死んだのは、三年前のことだった。

彼女は黄色い羽の生えた蝶々のような着物を着て、花に囲まれて、棺の中に眠っていた。

彼女は美しいものに囲まれて暮らそうとしていた。

美しいピアノ、美しいヴァイオリン、美しいレンガの門のある庭、美しい薔薇の似合う花壇、それから、美しい整えられた顔と所作と着物と。

人が作り上げてきた美しいものたちに囲まれて、彼女は暮らそうとしていた。


彼女は、今、この世にはいないのだが、時々、黄色い蝶々を見つけると、彼女のことを思い出す。

いや、彼女のことを思い出している時に、黄色い蝶々が飛んでいることがあった。

プシュケーは魂で、天使で、蝶々のようなものの象徴とユングは言っていたが、彼女の魂がもしあるとするならば、そういう軽やかな化身であってほしいと思うが。


蛾は、さすれば、現生の私の魂のようなものかもしれないと思う。

かき集めた茅をまとったミノムシのように、この世にぶら下がったままの魂は、今、春に吹かれているところ。


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by akikomichi | 2017-03-06 16:57 | 詩小説 | Comments(0)