夏目と冬目

白川村とほぼ同じ こて のことを、岐阜県揖斐郡(いびぐん)本巢町神海では ていた と言っている。
かい型で、材料は けやき である。
ここでは めなし と言って、こて型の表面を鉋をかけたりして正確な平面にして使用しているが、これにはわら縄巻かないというから、一段と精密な仕上げを期待している こて ということがわかる。
つまり、白川村のようにわら縄をまくと、能率的にたたけるが、それほど正確な平面性は得られないで、細かいでこぼこが残る。
めなし といわれるような正確な平面を持った板で叩き揃えれば、それなりに平面性も正確になる。
その代わりに縄のような滑り止めもつかないので、どうしても滑りやすく能率がよくなく、叩く力も余分なものが必要になってくるということになる。
この めなし も使用しているうちに板の 夏目 が減ってきて、自然と 冬目 が浮いてくる適度な滑り止めができるようになってくる。


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※ 年輪を見ると交互に厚さの薄く色の濃い層と、厚く色の薄い層が綺麗に順番に重なっているのがわかる。
  前者を 冬目 といい、後者を 夏目 という。


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by akikomichi | 2017-07-08 21:01 | 日記 | Comments(0)

露柱 氷のけたに 雪のはし 雨のたるきに 露のふき草


屋根をぬう縄ははりなわというが、羽茂町小泊では、はりなわを作った後、はざに張って伸ばしておく。
使う時に伸びないように、伸びるだけ伸ばしておく。
水をつけたりすると効果があるという。
真野町浜中では庚申(かのえさる)の夜、てなわをより、とっておき、棟をくるむ時に使うと良いという。
その時、必ず水むすびにしなければならない。
角(つの)結びだといけない。火という字の形になるからという。
水むすびというのは、縄をまず花むすびにして、両方に輪を作った後、その輪にハサミを入れて切り離しておくことである。
これもひたすら、火を恐れての仕業ということができる。
佐渡では火を極端に恐れるところがある。
畑野町宮川では柱立て(建前)のことをすだちといい、これが済むとすぐ、昔は屋根葺きに入ったという。
ふきあがると棟に酒、するめ、昆布を供える。
するめは焼いたものはいけない。
屋根葺き道具も水という字の形に並べて供える。屋根に上がる供物は煮ても焼いてもいけない。
必ず生のものを備えなければならないばかりか、終わって下げた酒までもおかんしてはいけないという。
冷酒で飲まなければならない。
酒、供物、屋根葺き道具が備えられると親方(屋根棟梁)によって、

露柱 氷のけたに 雪のはし 雨のたるきに 露のふき草

と唱える。



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by akikomichi | 2017-07-03 14:19 | 詩小説 | Comments(0)

覚書

<主な屋根型>

やろうむね(寄棟)
はふ造り(入母屋造)
かぶと造
きりつま(切妻造)

すごや
まがりや
くど造
せいろ造
二棟造

まる棟(暖地型)
かく棟(寒地型)

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by akikomichi | 2017-06-28 23:17 | 日記 | Comments(0)

茅葺〜沖縄〜

この当時、茅葺屋根と軒瓦の融合があった。

それまでの沖縄の統治者は瓦を庶民が使うのを許していなかったという。
家の形も決められていたということは自由な琉球とは言い切れない過去があったということ。
声高に琉球独立などというものがいるが、そこに自由があるのかと問われたら、何かしらの制限が出てくる可能性があるということにも、思い至るが。

何より、茅葺はそこにあるもので作り上げていく生活の拠点であり、そこにいる人を雨風日差しから守ってくれるものであったのは、琉球に限らず、日本全国に限らず、世界中のことであることを、今後とも探していきたいと思う。



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by akikomichi | 2017-03-07 22:09 | 日記 | Comments(0)

『茅葺への道』


イラン北部、カスピ海地方の都市ラシュトから約20キロ離れた
サンギャルという町の方角に、
「素敵な古い家があるからぜひ行ったほうがいい」と、友人イラン人に勧められて、行った先には、茅葺らしき家があったという。


朝日新聞の特派員の奥方のブログ
http://ameblo.jp/iranmama/entry-12189943704.html
に書いてあった。

個人的には、朝日新聞は、基本的に慰安婦捏造事件から、見たくないというのが本音であるが。

奥方のブログには、子どもを通じて現地に溶け込もうとしながら、日本人的眼差しをも投げかけている、色眼鏡なしに面白いものがある。



イランにも、茅葺らしき家があるのは、初めて知った。

私の知っているイランの古い家は、基本が土壁、土レンガの家であったが、茅葺もあったということに、衝撃を受けている。

カスピ海近くは、日本の気候によく似た湿気の多い土地柄であるので、緑も多く、青々としており、茅葺系の家もできるのは、納得できる。

しかも、保存を願う方のおかげで、イラン各地から、村のような、公園のようなエリアに集められた形で、保存されているようである。

子供の時、父親の仕事(警察官であるが一度めは国際交流基金の一環で柔道の先生として、二度めは外務省に出向して)の関係でイランに住んでいたことがあるが、実際に見たことがなかったので、感激している。

ぜひ、拝見しに行きたいと思う。


日本だけでなく、世界の茅葺を見たいと思ふ。

魚沼の茅葺職人プロジェクトでお世話になった受け入れ先の棟梁の樋口さんから、お借りして拝読した本にも、イギリスやアイルランドに、茅葺の家があると知り、世界中にある茅葺の家をいずれ訪ね歩きたいと思うようになった。

その土地にある素材を使うことと、屋根の歴史と並走していることを改めて思ふ。

しかも、世界同時多発的にあるということ。

もっと茅葺に限らず、世界の屋根の流れをも知りたい。と思う。


他にも、道は家の屋根!という町の記事も拝見し、面白かった。

土の屋根が道となり、段々畑ならぬ、だんだん家になっているという街も、いつか、訪れてみたい。
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by akikomichi | 2016-09-13 10:47 | 詩小説 | Comments(0)

道真「草堂」考

 福岡県太宰府市教育委員会は25日、10世紀初めに都から左遷された菅原道真が過ごした「南館」があったとされる榎社(同市朱雀)境内の発掘調査で、9世紀後半~10世紀前半の掘っ立て柱建物跡や溝跡が見つかったと発表した。溝から、かめに坏(つき)を重ねて入れた祭祀(さいし)用とみられる遺物も出土。市教委は「菅公(道真)がこの地で最晩年を過ごした時期(901~03年)と重なる注目すべき遺構」としている。

 市教委は6月から調査を進め、平安時代の掘っ立て柱建物跡3棟などを確認。うち1棟は出土土器から9世紀後半~10世紀初頭と判明した。これまでにも南館跡の一部とみられる遺構は見つかっていたが、時期が絞り込まれたのは初めて。

 建物は東西5・8メートル以上、南北2・8メートル以上の規模。瓦の出土が少なく、屋根は板ぶきか、かやぶきだったとみられるという。近くで見つかった溝の跡からは、坏11個以上が入った高さ約20センチ、口径15センチのかめ(土師(はじ)器)なども出土した。

 道真は漢詩集「菅家後集(かんけごしゅう)」で大宰府の住居を「南館」と称する一方、「草堂」とも表記し瓦ぶきでなかったことをうかがわせる。「発掘成果と整合性がある」と市教委は説明する。

 現地は大宰府政庁跡から約600メートル南。大宰府条坊のほぼ中心部で、政庁から南下する朱雀大路(すざくおおじ)(幅35メートル)跡沿い(右郭)。区画された敷地の中央部でないため、市教委は「菅公が住んだ中心施設ではなく、炊事など家政を担った施設の可能性が高い」としている。

 市教委は27日午前10時から現地説明会を行う。

=2016/08/26付 西日本新聞朝刊=

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「草堂」ということは、茅葺や板蓋であった可能性があるということか。

茅葺の屋根を勉強するようになって、茅葺に限らず、石を板の抑えに使った石の屋根や、現在風の瓦屋根に至った大まかな流れなどにも興味が出てきたこともあり、その過程が俄然面白くなってきた。
そこに住んでいた人の思いも家の形になっていくこと、良くも悪くも、生き方、生きた足跡が、家の形にも表れるということをつくづく思う。

魚沼に行く前に途中乗り換えで立ち寄った京都の昔の建築物を訪れたが、唐風文化的瓦葺きと、元々あった茅葺との融合も見られた国風文化的なものが平安時代にあったが、朝廷関連施設に瓦葺きが採用され茅葺は住居として使用されていたということからも、「草堂」はより生活の場に近いものであった可能性は大きいと思われる。

菅原道真は左遷され、約しい生活をしていたとされており、廃屋に近いものを与えられていたということも聞いていたので、より一層、当時を偲ばれる発見と思われる。

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 平安時代の貴族で秀才ぶりが伝わる菅原道真は、政治の中枢を担う右大臣まで上り詰めたが、政争に敗れ、京都から遠く離れた大宰府に追い落とされた。華やかな生活は一転し、雑草が生い茂り、雨漏りする官舎で、衣食もままならないわびしい晩年を余儀なくされたようだ。

 学問の名家に生まれた道真は幼くして和歌を詠み、青年期には詩文を教授する文章博士に。弓の腕も高く、文武に才を発揮したとされる。

 醍醐天皇の時代、右大臣だった道真は左大臣藤原時平によって身に覚えのない罪を着せられ、大宰府に左遷。道真の漢詩集「菅家後集」からは、任地での不遇を嘆いた様子がうかがえる。

 菅家後集によると「空しき官舎」はかやぶきで雨漏りもひどく、井戸はふさがれ、庭石が雑草で隠れるほど荒れ果てていた。身の回りの世話をする年老いた使用人らはいたが、優雅な都の生活とはかけ離れていた。

 左遷から2年、道真は自身の潔白を祈りながら903年に生涯を閉じた。その後、無実が証明されて神様の位を贈られ、太宰府天満宮にまつられたとされる。

snakei ~~~~~~~~~
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by akikomichi | 2016-08-26 10:50 | 日記 | Comments(0)

ツリークライミング体験

今日は、風小僧さんのツリークライミングに挑戦してきました。

なんという景色。

ボートに寝転んでいると、木の上に住みたくなりました。

高いところに慣れている。

とスタッフさんに言われ、茅葺き職人体験が、木に近いところに連れて来てくれたようで、うれしかったです。

最後の、最高の体験をありがとうございました。

この大好きな魚沼を福岡の家族にも見せたいなぁ、と一緒に登ったご家族さんをみながら、思いました。
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その後、お世話になった方々と最後の酒盛りをさせていただきました。
美味しいお酒とご飯をありがとうございます。

一生忘れないどころか、また必ずや、訪れます。
愛しています。
魚沼・茅葺・青空。
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by akikomichi | 2016-08-14 19:05 | Comments(0)

目黒邸

初日に目黒邸も見せていただいていた。
大きな茅葺き屋根は美しく整い、そこにあった。
佇まいが美しいのはもちろんのことだが、どっしりとした厚みをも感じた。
茅葺き屋根はふきかえられながらも、そこに居続ける重厚感とでもいおうか。
むかしからありながら、どこか整った ひとつの日本の文化の、そこにあるからこそ成り立ってきた形が見て取れたのだと思う。
妻夫木聡さんがでていた大河の天地人の撮影もあったと職人さんが教えてくれたが、そういった、繰り返される記憶の集約でもある文化にも、時の重みをあたえ、なくならないなにものかの形を垣間見させてくれるのである。
目黒邸の上から見まもる神社はうちの腕のいい優しい棟梁樋口さんがお一人で茅葺されたという。
美しい願いの結晶のようなものである。
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by akikomichi | 2016-08-10 05:00 | Comments(0)

雨模様

今日は昼頃に雨模様だった魚沼です。

雨の中、やれることをやる茅葺き職人さんたちでした。

佐藤邸からの帰りに小野川さんから聞いた観音堂?探索しようとしたら、熊に注意⁉️の看板があり、行くか戻るか、一瞬、考えながらも、一目だけと分け入る。
熊も人もなく、少し、寂しげでありました。
そういえば、いおりくんから熊が自分のテリトリーの目印に木の幹に爪痕を残すが、それを見たことがあると聞いたばかりで、妙にリアリティがあったのでした。
また、五十嵐さんによると、今どきの熊は川を渡らず、橋を歩くそうです。
熊も人間化しているのかもしれません。

あの橋を渡るのは熊。



かえったら、民宿青空さんの玄関で、にゃーと二度、猫の呼ぶ声。
遊びに来たのかと開けると、知らない人で驚いたのか、ちょっと逃げて、こちらを見ていました。こんばんは。猫。

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長崎で亡くなった方々の魂が浮かばれますように。
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by akikomichi | 2016-08-09 19:12 | Comments(0)

『茅葺の村』

茅葺の村に行ってきた。

山奥にある、今は暑いさなかの村だ。

一つは閑散として人が生きて静かに暮らす村。

村の入り口に、茅葺の水車小屋があった。

茅葺にも、いろいろある。水車小屋であったり、仏さんを祀る茅葺であったり、大桃のような神社の舞台であったり、人が暮らしていく上で、茅葺はいつもそこにあったのだ。

小さな茅葺の屋根に守られた仏さんの真向かいに、無人販売所に無造作に野菜が置かれていた。

人がまばらに村に入ってくると、村に住む女性なのだろうか、おもむろにどこかから出てきて、野菜の補充などをしだした。


今日は暑いですね。


お互いに、本当のことを話しながら、そこにある野菜に目を走らせた。


とうもろこしは、もう無くなったみたいだけど、ここにあるものは一袋百円です。


おかっぱでモンペ風の服を着ている女性が言う。


量の割に安いので、サヤエンドウとジャガイモを買う。

坊ちゃんかぼちゃもキュウリもあったが、茅葺職人のインターンで手伝っている茅葺保管倉庫近くに住んでいる息子さんが射撃のオリンピック選手だという方に頂いたので買わなかった。

そういえば、すでに開催されているリオオリンピックでは、柔道が銅、水泳が金、銅を立て続けに取ったというが、リオも暑いのだろうか。

そんなことを漠然と思いめぐらしながら、坊ちゃんかぼちゃの太陽をたくさん浴びたであろうゴツゴツとした深い緑の皮を眺めていた。

おかっぱの女性が、


もうすこし奥に行くと薬師堂がありますよ。行ってみたらいい。


と言って、村の女の人が二、三人で静かに話している寄りあいの中に、


暑いねえ。


と言いながら、入っていった。

私は、薬師堂を目指して、暑い道の上を歩いた。

どこからきたのかよくわからない親子連れの母親も細くて長い石段を登ってきていた。

登りつめると、薬師堂があり、そこから村が見渡せた。

あのおかっぱの人は、この村を一目で見渡せる場所を知らせてくれたのだった。

東日本大震災の際、神社のあるところは、こういった高台にあり、そこが流されるか流されなかったかの分岐点になっていたことが多かったというが、この薬師堂には、村の中よりも緑を含んだ風が心地よく吹いていた。

見渡せば、茅葺の尾根のようにも見える。

曲家の多い前沢の集落であった。




もう一つは活気付いた観光地として生きる茅葺の村、大内宿集落があった。

そこには段々畑のように刈り取られそうな駐車場が幾つかだんだんになってあり、だんだんの下の方から、登ると村まで干上がりそうなくらい暑かった。

冬は、尋ねるのさえ難しくなるであろう村々であったが、夏の暑さは、それほど変わりはなかった。山の上なので照りつける日差しもより多いのかもしれない。


村の入り口には、茅葺の普通に暮らす家があるようであったが、軒先にはぶどう果汁の瓶や自家製の味噌のようなものが置いてあり、半分無人化していた。

草刈機を持った老人が出てきて、今から、裏庭の草でも刈る用意をしているらしかった。

その先には、土の道を挟んで、小川のような水路がちろちろとと両脇に流れ、茅葺の家には土産屋やネギっこ一本で食べるというネギ蕎麦屋などが軒を連ねていた。

茅葺の店には誰もいなくて、黒猫だけが縁側で伸びをしながらごろごろと眠っていたので、なんとはなしに近づいていった。

猫は眠りながらも、片目を開けて、こちらを一瞥するとまた、何事もなかったように、今度は丸まって眠り始めた。

ふと見ると、説明書きがしてあり、そこにイザベラバードが宿泊したと書かれていた。

柏崎で、そういう話を聞いたことがあったが、どこの村に宿泊したかは、はっきりとしなかったのであるが、その宿とされた村が、この村の、この黒猫が眠っている茅葺の家だったのである。

誰もいないと思っていた店先に、女主人であろうか、いつの間にか座って、じっとしていた。

ここの方々は自然と、風のように、そこに来る。


あの、こちらにイザベラバードが泊まったのですね。


私は、女主人に書いてあるままのことを聞いた。


ええ、そうなんですよ。明治時代にね。一泊だけされたって聞いています。


イザベラバードさんは一人で来たのですか。


確か、書生さんを連れていたって、ええ、通訳のために「いとう」という書生を。


何才くらいだったんですかね。


そうねえ、47才くらいだったらしいですよ。馬に乗ってねえ。


イザベラバードも通訳を連れてはいたが、ほぼ同い年で、しかもほぼ単身でここを訪れていたということである。しかも馬に乗って。


急に、イザベラバードが近くなった気がした。


イザベラバードは、横浜あたりから日本に入って、ここまで来たんですかね。


そうらしいですが。横浜から、日光、ここにきて、会津若松にはなぜか立ち寄っておられんの。そのわけもわかるけどねえ。その頃はまだ会津の戦さの爪痕がひどかったろうし。それから新潟さいって、北海道まで行ったらしい。

女主人は続けた。

そうそう、イザベラバードが泊まった時に、葡萄酒を飲んでいるのを見て、村の人が生き血を飲んでいると怖がったという話があってねえ。この前、富岡の製紙工場を訪れた時ですよ。同じような話を聞いて、驚いたんですけどね。外国人の技師がやはり葡萄酒を飲んでいたから、女工さんたちが働くのをやめさせようとした親御さんたちがいたっていう話なんですけどねえ。面白いですよねえ。生き血を飲むなんてねえ。

と、女主人は、さも面白そうに話した。


さっき葡萄果汁を見かけたんですが。それとは思わなかったんですかね。


その当時、葡萄があったかどうかもよくわからなかったが、そう聞いてみた。


あったとしても、色が赤くはないんですよ。葡萄色といいますかね。真っ赤じゃない。日本にもドブロクやらの白い酒、透明な清酒はあったんですがねえ。赤はなかったんですよ。


女主人は、赤にこだわっていた。

黒猫が、傍で気持ちよさそうに伸びをしている。赤い舌がちろっと見えた。


あの黒猫は、名前は何て言うんですか。


ああ、あの子はね、きゅうちゃんって言うんですよ。足が速いんで、きゅうちゃん。オリンピックにも出たあのきゅうちゃんにあやかってねえ。


じゃあ、女の子なんですかね。


そうそう、でももう8歳なんですよ。


老婆の域に達しそうであったが、華奢でまだまだ細く俊敏な漆黒の肢体をしていた。


とち餅をその店で手に入れ、道の行き着く先を見上げれば、やはり、鳥居のようなものがあった。

村を見下ろすところに、神社仏閣祈りの場あり。

踵を返すように、今度は反対側の茅葺の店を探索していると、猫の好きだというマタタビの枝と実が置いてあった。

きゅうちゃんが飛んでこないのは、なれてしまったのか、すでにマタタビにやられて、ゴロゴロしていたのかは定かではなかったが、店番をしているほっかむりをしているばあばさまに聞いてみた。


このマタタビの実はのう、朝採ってきたばかりよお。


ばあばさまが、笑いながら言う。


これをさあ、焼酎につけて飲むのお。わたすう、誰もおらん時に、いっぱいきゅうっと飲むのお。朝と晩、いっぱいづつなあ。もう、これが薬よお。ピンピンしとるよお。


ばあばさまは、美味しそうにきゅうといっぱい飲んだふりをした。

少し、赤ら顔に見えたのは、そのせいなのだろうか。


私もつられて、いっぱいやった気になりながら、やはり朝摘みのミョウガを手に入れて、一個だけマタタビの実をばあばさまにもらってかえった。
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by akikomichi | 2016-08-07 16:26 | 詩小説 | Comments(0)