露柱 氷のけたに 雪のはし 雨のたるきに 露のふき草


屋根をぬう縄ははりなわというが、羽茂町小泊では、はりなわを作った後、はざに張って伸ばしておく。
使う時に伸びないように、伸びるだけ伸ばしておく。
水をつけたりすると効果があるという。
真野町浜中では庚申(かのえさる)の夜、てなわをより、とっておき、棟をくるむ時に使うと良いという。
その時、必ず水むすびにしなければならない。
角(つの)結びだといけない。火という字の形になるからという。
水むすびというのは、縄をまず花むすびにして、両方に輪を作った後、その輪にハサミを入れて切り離しておくことである。
これもひたすら、火を恐れての仕業ということができる。
佐渡では火を極端に恐れるところがある。
畑野町宮川では柱立て(建前)のことをすだちといい、これが済むとすぐ、昔は屋根葺きに入ったという。
ふきあがると棟に酒、するめ、昆布を供える。
するめは焼いたものはいけない。
屋根葺き道具も水という字の形に並べて供える。屋根に上がる供物は煮ても焼いてもいけない。
必ず生のものを備えなければならないばかりか、終わって下げた酒までもおかんしてはいけないという。
冷酒で飲まなければならない。
酒、供物、屋根葺き道具が備えられると親方(屋根棟梁)によって、

露柱 氷のけたに 雪のはし 雨のたるきに 露のふき草

と唱える。



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by akikomichi | 2017-07-03 14:19 | 詩小説 | Comments(0)

ドリュ・ラ・ロシェルは10年ほど前から気にはなっていたのだが、古本屋で、たまたま手に入ったので、読み始める。

ロシェルは、ルイ・マルの映画「鬼火」の原作「ゆらめく炎」や、「藁の犬」などがよく知られていると思われるが。

その本質において、煙に巻かれたような、自死によってその奥底の姿を消し去られたようなところに焦点が当てられ、フランス・ファシズムの権化としてのロシェルの内面、外面を掘り下げているものであった。

「政治的ロマン主義の運命」(有田英也著、名古屋大学出版)とは、どういうものなのか。

そもそも、彼の思考、思想、行動は、果たして「政治的ロマン主義」であったのかも検証する必要があると思われるが。

この本の著者にならえば、ドリュ・ラ・ロシェル/男性性/ファシズム であるという。

仮にそうであるならば、ヴァージニア・ウルフ/女性性/反ファシズム となるであろうことが、まず自分の中に、浮かびあがってきた。

ヴァージニア・ウルフと同時代に生きたものとして、しかもフランス・ファシズムの只中にいたものとして、ウルフと対極にあるものとしてのロシェルであるが、両者とも、自死によってその生に終わりを告げているというところに、共通性がある。

また、ウルフの一時的な同性愛的傾向とともに、ロシェの同い年くらいの(ロシア人の)男子の手に親しみを感じながら接吻しようとして噛みついてしまったというエピソードから、同じ匂いを感じずにはおられないものが無きにしも非ずで、どこか奇妙な、相対性を持っているように思えた。

まだ、細部は、これからの見所として、じっくり、拝見したいと思う。

 

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by akikomichi | 2017-02-22 23:19 | 日記 | Comments(0)



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by akikomichi | 2017-01-21 20:15 | 日記 | Comments(0)

道真「草堂」考

 福岡県太宰府市教育委員会は25日、10世紀初めに都から左遷された菅原道真が過ごした「南館」があったとされる榎社(同市朱雀)境内の発掘調査で、9世紀後半~10世紀前半の掘っ立て柱建物跡や溝跡が見つかったと発表した。溝から、かめに坏(つき)を重ねて入れた祭祀(さいし)用とみられる遺物も出土。市教委は「菅公(道真)がこの地で最晩年を過ごした時期(901~03年)と重なる注目すべき遺構」としている。

 市教委は6月から調査を進め、平安時代の掘っ立て柱建物跡3棟などを確認。うち1棟は出土土器から9世紀後半~10世紀初頭と判明した。これまでにも南館跡の一部とみられる遺構は見つかっていたが、時期が絞り込まれたのは初めて。

 建物は東西5・8メートル以上、南北2・8メートル以上の規模。瓦の出土が少なく、屋根は板ぶきか、かやぶきだったとみられるという。近くで見つかった溝の跡からは、坏11個以上が入った高さ約20センチ、口径15センチのかめ(土師(はじ)器)なども出土した。

 道真は漢詩集「菅家後集(かんけごしゅう)」で大宰府の住居を「南館」と称する一方、「草堂」とも表記し瓦ぶきでなかったことをうかがわせる。「発掘成果と整合性がある」と市教委は説明する。

 現地は大宰府政庁跡から約600メートル南。大宰府条坊のほぼ中心部で、政庁から南下する朱雀大路(すざくおおじ)(幅35メートル)跡沿い(右郭)。区画された敷地の中央部でないため、市教委は「菅公が住んだ中心施設ではなく、炊事など家政を担った施設の可能性が高い」としている。

 市教委は27日午前10時から現地説明会を行う。

=2016/08/26付 西日本新聞朝刊=

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「草堂」ということは、茅葺や板蓋であった可能性があるということか。

茅葺の屋根を勉強するようになって、茅葺に限らず、石を板の抑えに使った石の屋根や、現在風の瓦屋根に至った大まかな流れなどにも興味が出てきたこともあり、その過程が俄然面白くなってきた。
そこに住んでいた人の思いも家の形になっていくこと、良くも悪くも、生き方、生きた足跡が、家の形にも表れるということをつくづく思う。

魚沼に行く前に途中乗り換えで立ち寄った京都の昔の建築物を訪れたが、唐風文化的瓦葺きと、元々あった茅葺との融合も見られた国風文化的なものが平安時代にあったが、朝廷関連施設に瓦葺きが採用され茅葺は住居として使用されていたということからも、「草堂」はより生活の場に近いものであった可能性は大きいと思われる。

菅原道真は左遷され、約しい生活をしていたとされており、廃屋に近いものを与えられていたということも聞いていたので、より一層、当時を偲ばれる発見と思われる。

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 平安時代の貴族で秀才ぶりが伝わる菅原道真は、政治の中枢を担う右大臣まで上り詰めたが、政争に敗れ、京都から遠く離れた大宰府に追い落とされた。華やかな生活は一転し、雑草が生い茂り、雨漏りする官舎で、衣食もままならないわびしい晩年を余儀なくされたようだ。

 学問の名家に生まれた道真は幼くして和歌を詠み、青年期には詩文を教授する文章博士に。弓の腕も高く、文武に才を発揮したとされる。

 醍醐天皇の時代、右大臣だった道真は左大臣藤原時平によって身に覚えのない罪を着せられ、大宰府に左遷。道真の漢詩集「菅家後集」からは、任地での不遇を嘆いた様子がうかがえる。

 菅家後集によると「空しき官舎」はかやぶきで雨漏りもひどく、井戸はふさがれ、庭石が雑草で隠れるほど荒れ果てていた。身の回りの世話をする年老いた使用人らはいたが、優雅な都の生活とはかけ離れていた。

 左遷から2年、道真は自身の潔白を祈りながら903年に生涯を閉じた。その後、無実が証明されて神様の位を贈られ、太宰府天満宮にまつられたとされる。

snakei ~~~~~~~~~
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by akikomichi | 2016-08-26 10:50 | 日記 | Comments(0)

ミクシィ内にあったので、以下参照。


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慰安婦問題 米国報告書「彼女らは大金稼ぎ、欲しいもの買えた」 産経新聞 2013年11月5日

 根拠なく慰安婦募集の強制性を認めた河野談話が出されて以降、世界で慰安婦イコール性奴隷と流布されているが、現実はどうだったか。過去の米国の資料からは、それとは全く別の慰安婦像が浮かび上がる。

 米国戦争情報局資料「心理戦チーム報告書」(1944年10月1日)は、米軍がビルマ(現ミャンマー)・ミートキーナ(同ミチナ)で捕らえた朝鮮人慰安婦20人らから尋問した内容をまとめている。それによると慰安所における慰安婦の生活の実態は、次のように記されている。

 「食事や生活用品はそれほど切り詰められていたわけではなく、彼女らは金を多く持っていたので、欲しいものを買うことができた。兵士からの贈り物に加えて、衣服、靴、たばこ、化粧品を買うことができた」「ビルマにいる間、彼女らは将兵とともにスポーツを楽しんだりピクニックや娯楽、夕食会に参加した。彼女らは蓄音機を持っており、町に買い物に出ることを許されていた」

 報告書はまた、「慰安婦は客を断る特権を与えられていた」「(日本人兵士が)結婚を申し込むケースが多くあり、現実に結婚に至ったケースもあった」と書いている。雇用契約に関しては、慰安所経営者と慰安婦の配分率は50%ずつだが、平均月収は1500円だった(当時の下士官の月収は15円前後)。

 国連人権委員会に96年、慰安婦を性奴隷と位置づける報告書を提出したクマラスワミ特別報告官と会い、慰安婦問題について説明したことがある現代史家の秦郁彦氏は次のように語る。

 「クマラスワミ氏は、河野談話は『強制連行』とは書いていないが、それを否定していないと解したのだろう。河野談話は日本政府の談話であり、国連などの場で他者を説得するには一番便利だ。また、外国人の感覚では『悪いことをしたから謝るのだろう。やはり強制連行をしたのだ』と受け止めるのも無理はない」 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131105-00000066-san-pol

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by akikomichi | 2013-11-06 06:01 | 日記 | Comments(0)

参考まで〜歴史とは語られることでより事実に近づくことも有る〜

http://www55.atwiki.jp/staff-officer/pages/120.html

慰安婦捏造詐欺の元ネタ → 朝鮮南部連続少女誘拐事件(朝鮮人の朝鮮人による朝鮮人のための売春斡旋がみられた事象)
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by akikomichi | 2013-07-11 08:37 | 日記 | Comments(0)

引揚孤児と犯された女たちの記録『水子の譜』上坪隆 徳間書店 昭和史の記録より

福岡の博多駅近くの聖福寺境内において聖福寮という当時のお金で30万円程のバラックが作られ、そこで引揚孤児の一時避難所的役割を担っていた。
福岡友の会青年部と京城帝大の医師グループが中心となって、その後昭和二十二年、日本に児童福祉法が制定されると保育所となって認可され、引き揚げ孤児や母子家庭だけでなく、共働きをする母親たちにもその門戸が解放された。

昭和23年になると海外からの引き揚げ業務は終わり、在外同胞援護会救療部の役目を終えた。

引き揚げ孤児 164人
宿泊託児   49人
昼間託児   78人
臨時託児   65人
保育園児   625人

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それぞれの戦後があった。

著者の上坪隆は旧満州の通化というところで終戦を迎えたと言う。
朝鮮と国境を接し、白頭山が遠くに見える軍にとっては要害の地であった。戦後、北からの難民が多数逃げ込んできて、山の中腹にある日本人街に寿司詰めに収容された。
発疹チフス、コレラ等が流行し、死者が絶えなかった。
この町はまた、中国の革命戦争の舞台となり、市街戦が繰り返され、日本軍の残党が蒋介石軍と結託して日本居留民を動員して戦い、多くの一般日本人が殺された。
「通化事件」と呼ばれる事件だが、このとき、著者は目の前で何十人もの人が殺されるのを目撃した恐怖の体験を持っていた。
千人を超す屍体が裸にされ、凍土の上をすべらされ、川の中に捨てられたのを見たと言う。

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二日市保養所の誕生

博多港から車で約四十分のところに二日市温泉郷がある。近くに太宰府もある。その一角にある武蔵温泉に「二日市保養所」は作られた。その後、済生会二日市病院となり、鉄筋コンクリートの近代的病院になっている。

日中戦争が始まると愛国婦人会福岡県支部の手に移され、負傷兵の保養所になったが終戦後は空き家同然のこの地を「二日市保養所」とした。

昭和21年6月10日付けの医務主任橋爪将医師の自筆の二日市保養所現況報告によると、

 病類別に収容患者を見るに、不法妊娠最多にして47名、性病11名、その他婦人科疾患3名、内科疾患5名なり。
 不法妊娠を地区別に分類するに北朝24にして最多、南鮮14、満州4、北支3の順序にして鮮人に因るもの28、ソ連人に因るもの8、支那人に因るもの6、米人に因るもの3、台湾人、比島人に因るもの各1なり。

 不法妊娠とは、引揚者である一般女性に対する外国軍や通過する旅すがら部落の男たちから受けた強姦による妊娠のことである。

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この強姦の事実を直視することが必要である。
一般の日本人女性を強姦した、韓国、中国、その他の国の軍関係者とそれに連なる強姦者を強く告発する。
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by akikomichi | 2012-08-17 11:21 | 日記 | Comments(0)