「六年」

六年たったのだ。

八百屋でイチゴを買っていた時に、起こっていた東日本大震災から。
最初に爆発の話を聞き、それから尋常ではない津波が押し寄せてきたということを知った。

父がちょうど、私の家に来ていた。
行くあてがない半身不随の父であった。
母のいるところへは、いけない様々な事情もあった。
父は言うなれば拠り所のない人であった。
いや拠り所はいくつかあったのだが、そのどれにしても、終の住処ではなかったということであった。
今までいたところにもいられなくなり、針の筵の、父にとっての娯楽はない、居心地のあまり良くない我が家へ一時的にでも避難していた時のこと。

あの日、洗濯物を干している私に、一日に一度は外に出ないと死んでしまうという父の願いを聞いて、介護と子育てと寝不足で疲れきった体を鞭打って、外に出ていた時であった。

何もかもに疲れきって、何もできない無力感と悔しさが自分の内でも外でも、同時多発的に起こっていたのだった。


あの震災とは、一体、何だったのであろうか。

当初から、あまりに桁違いのことが重なり、揺れがあまりに尋常でないことや、津波の起こり方の不自然さからも、また、電離層の何らかの人工的な介入を指摘する声もあり「人工地震」ということを実証できる段階に来ている今、ごまかすことは、これからの世界にとって難しく、本当のことがわかることが、何より次の震災を食い止めることになるであろうことを思う。

実際に、人工地震を起こすことができるのは単純な北朝鮮の核実験で認証済みであるので、それをこそこそと海底に仕掛けるくらい朝飯前である者がいるのは言うまでもなく、どこの誰に責任があるかは、後の世が必ず教えてくれることであろう。

いずれ後の世になって、心ある者たちから、心ない者たちは血祭りにあげられることであろう。


このような狂った世界において、唯一、救いだったのは、そこで暮らす人たちのいき様であった。が。


日本が狂っているのではなく、その地震を起こしたものがそもそも狂っており、何よりその地震が起こって、狂喜乱舞していた近隣諸国の、韓国のいやらしい行為、痛手を負った日本に唾を吐きかけるような日本の竹島への不法侵略や東日本大震災を祝うなどという垂れ幕を垂らすサッカーのサポーターや、東日本が大変なことにつけ込んで嬉々として土足で踏み込んでくる盗人猛々しく船に乗って日本の尖閣諸島に攻め立ててくる、狂った中国の集団が、すぐそこにいたことに、それまで、それほどまでの悪意を見たことがなかった戦後生まれの何も知らなかった私を含めて、それらの何とも言いようのない悪意を知った日本人は愕然としたのであった。

その時に、断固抗議もせず、ただ押し黙って、仕方がないと、やりたい放題する者のなすがままにしていた者たちを見ていた子供達は、薄っぺらい正義など信じなくなったとしても、当然のことである。

まだ、立ち上がって声を上げた、残される家族を思って死ぬ前に立ち上がった老人の方を信じることができたのである。

むざむざと、やられているわけにはいかない。という老人の方が、六年経てばすっかり何事もなかったように、ヘラヘラ笑って、飼いならされて、俺たち仲良しですよね、俺たちはなし合えば仲良くできてますということになるらしいもてなされてホイホイ国を売る自称知識人よりも、信頼できたのである。

そのような自称知識人が、老人たちを攻め立てている今の日本のいびつさこそが、そのまま、日本の戦後なのだとようやく見えてきたところであったのだ。


東日本大震災の後、国というものは、脆いということを思うようになった。

日本は、半分、失ってしまったのではないかと思ったのだ。

あの時。

そこに住む人たちがいて、国というものがあるということもまた思う。

悪意のある世界があろうとも、そこに住む人がいる限り、この世界は続くのだということも。




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by akikomichi | 2017-03-11 22:20 | 詩小説 | Comments(0)