2017年 01月 24日
「存在力」
第一回プラチナブロガーコンテスト
目に映る景色が残ることは、必ずしも記憶に残ることではないが、記録には残るものなのだということ。
瞳の中に映り込むものを解析できる世の中となっては、水晶体があることが、致命的な証拠を残す。
殺人事件の犯人逮捕の際、被害者が加害者の写した姿を被害者の瞳の中に映り込んでいたのを解析し、その場にいた犯人を割り出したということが実際起こっていることを考えれば、納得いくところであろう。
あるいは、むやみに、写真やインスタレーションなので、ピースサインをしてはいけないというのも、同じ記録の証左において言えることである。
つまり、人の認証記録として指先の指紋が悪用される可能性があるということもそうであるが。
瞳の中に映るものが、そこにいるはずのないものであったとしたら、これほど、人々を混乱の渦に巻き込むことはないであろうことは、誰にでも予測される事態ではある。
さらには、人のDNAの残滓を集め、そこにいたものを解析する技術が物的証拠になる昨今であるが、これは瞳に残る映像解析の後先を行くものとして、今後人類のテクノロジーによって実現可能と思われる、「残像解析」というものの一歩手前にある素材であるように思えてならない。
そこにいたものが、犬の鼻が「臭い」を敏感に嗅ぎ分けられる装置ができると思っていただければいいのであるが。
それは不確かな「幽霊場」のようなものなのかも知れないが。
そこにいるはずのないものを感じてしまうたちのものが、常日頃、見て感じているものの類であるのかもしれないが。
私たちの「存在力」は、不確かなものであるが、そこにあるものなのである。
人の記憶も、また「存在力」の賜物であることを、私たちは知っている。
そこにいたものに語りかけるように、「なくしたもの」、つまりは、存在したはずのそこにあった「時間」の幻、「残像」に語りかけるようなものなのである。
私たちの継続性は、「時間」とともにぶつ切りにされているが、「重さ」がそれを確固たるものにしている。
つまりは「軽やかな」ほど、重みがないほど、その「存在力」は失われていると言えなくもないが、そこにいた記録としての「存在力」は、いつまでも、残り続けるのである。
それを感じようとするものにとっては「軽やかさ」こそが、極め付けの存在なのである。
私たちは「存在」していると同時に、「存在」したのである。
私たちの輪郭と「重み」をもってして、「存在力」は遺憾なく発揮されてはいるが、この「存在」は、見かけなくなった途端に、力を削がれ、その「存在力」を駆使できなくなる一方で、「軽やかな」「存在力」においては直接見られなくなろうと、その存在を、イデア化あるいは言語化あるいは情報化された記号のようなものになることによって、いつまでも、「遺伝子」のように、あるいは「素粒子」あるいはもっと細かなものとして、残り続けるのである。
それを拾い集めることが、「存在力」の究極の形となりうる。
見えないものを偶像化する手前の方が記号として、よりその「存在力」を全てに行き渡らせる可能性はある。
宇宙に存在するものは、この見えないもので大方できている。「存在」していると言える。
この全ての存在を存在させているものをこそ、最大の「存在力」であると言える。
全てのものを抱えもつ「存在」の「重さ」と、全ての「存在」を軽々と持つ「軽やかさ」と。
そして、「残像」解析をし続けているのが、今もって、宇宙そのものであるということを思い知らされるのである。
アート・デザイン部門
by akikomichi
| 2017-01-24 18:25
| 詩小説
|
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