「御狐さまと御地蔵さまの思い」

御狐さまが壊されていたのは、日本つつうらうらでのことであった。

我が福岡の警固公園でも何者かに壊されていたのだが、今回は福島の烏峠にあるという烏峠稲荷神社の御狐さまが韓国籍の住所不定、無職のチョン・スンホ容疑者(35)に壊されていたという。

韓国籍の住所不定、無職のチョン・スンホ容疑者(35)が逮捕されたが、石の御狐さま二体と木の御狐さま一体に込められた思いと時間を壊してしまった容疑者は、物言わぬ石と木と思いが烏峠に存在していることを、もしかして感じているかもしれない。

烏峠というからに、お狐さまの破壊を、烏のような存在が、峠のどこかで見ていたかもしれない。

烏に俯瞰されながら、ふらふらと道を歩いていると、警察に声をかけられ、その犯行を認めたというふうな。

ただ道を歩いていても不審に思われるようなことをしていた心が、とぼとぼと彷徨い歩いていたわけである。

もしかして、日本に来て、あなたは誰であるか。と、その存在を尋ねられたのは、初めてだったかもしれない。

あなたは一体、誰であるのか。
一体、何であるのか。
一体、何をしに日本へやってきたのか。

傷ついたのは、石の塊でも木の塊でもなく、そこに思いの形を具現した御狐さまとして、少なくともそこに住む人々に受け入れられてきたものなのであり、その思いの形を壊した時点で、チョン・スンホ容疑者の中の何かが壊れ、傷ついたのである。

何かを壊すものは、己の中の何かと通底する何ものかをも、同時に壊しているものである。

もし、チョン・スンホ容疑者が、そこにある御狐さまに参り、手をあわせることまでしたならば、道を歩いて、声をかけられたとしても、国籍や名前を尋ねられようとも、日本にいても問題のないただの観光客で、しかも他の国の大切にしているものをも、敬うということで、日本人との見えないところでの葛藤を和らげ、奥深い見せかけではない和解にも通じていったかもしれないが、誠に残念なことに、その見えないところで通じたかもしれない和解という関係性を見える形でも見えない形でも破壊したのである。

チョン・スンホ容疑者は、そこに住む者たちの思いの形を破壊したと思いつつ、一体の己を、破壊していたのだ。

御狐さまが、見えないところでないている。

烏が峠でないている。

思いがどこかでないている。

百体も壊された御地蔵さまもないている。

福島で亡くなった、地震で亡くなった、津波で亡くなった、そこで亡くなった人々の魂がないている。

一体の罪人の思いを破壊し、ないている。

このようなことにしたものの破壊をないている。

大きな思いがないている。

この破壊は、一体、二体にとどまることなく、百体もの思いを壊していったとするならば、チョン・スンホ容疑者にとどまらず、彼を支えていたものたちをも破壊していくことであろう。

思いとは形を変えて存在していくものなのかもしれない。

誰も見ていないから何をしてもわからないでは済まされない、何かが破壊されたものはもちろん、破壊者の中にも、何かが起こるということは確かなことであろう。

ものであれ、文字であれ、形になったものは、強く、深くそこへと収斂され、積み重ねられていく思いがあるのは、確かであろう。


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by akikomichi | 2016-12-11 14:03 | 詩小説 | Comments(0)