「竹ノコギリ」

竹ノコギリは切れ味が甘いらしい。

竹を切りながら、連れが言った。

連れは竹を切り、竹細工をしている、竹職人のようであったが、井戸掘り職人でもあり、自然農の米と野菜と栗と蜜柑とかぼすとそれからお茶を少しづつ栽培し、茅葺屋根を直して、時々、悪戯のように穴を掘り、野生の猪や鹿を陥れたりしていた。

雀が稗や粟や米をついばみにやってくると、決まって、

竹ノコギリは切れ味が甘いらしい。

という話をするのだった。

おそらく、安寿と厨子王の話、いわゆる山椒太夫の山場である、

安寿こいしやほうやれほ。厨子王こいしやほうやれほ。

と歌う盲目の芸妓崩れの老女の、安寿と厨子王の、人さらいに売られていった母の歌う歌を思い出すとともに、子供の時分には語られることがついぞなかった、竹ノコギリの話を思い出してもいるのだった。

その証拠のように、近くで雀も鳴いていたので、それは確信に近い共通感覚、共有感覚でもあった。

安寿と厨子王の中で、その盲目の老女は、目出度く目が見えるようになるという最後を迎えるのであるが、その後か、その前かは定かではないのであるが、竹ノコギリの話が抜けているのであった。

伝説の類で、実際にあった話かは、定かではないとも言われているが、安寿と厨子王が人さらいに売られた先の山椒太夫が姉の安寿の額に焼き付けたはずの焼印を身代わりに受けたという身代わり地蔵のあるお寺さんが幾つかあるらしく、それはあったような、なかったような、伝説が逸話かという曖昧なところを漂って、人々に口から口に伝わり、今まで生きながらえてきたのであった。

ところで、この竹ノコギリ。

厨子王がそこいらで役人のようなものになり、力を持つようになって、山椒太夫を懲らしめるために使われたという。

すぐには死なないように、切れ味の甘い竹ノコギリで、首と体をじわじわと切るのだ、竹が早朝に伸びるたびに、毛の生えた皮が剥がされていくように、首の皮一枚につながっているその瞬間まで、目に見えるようで、目に見えないような、ゆっくりとしに押しやるように、息を止めていくのだ。

竹を縦に割ったようなスパッとしたものではなく、あくまでも、竹の繊維を断ち切るように、じわじわと切り込んでいくのだ。

まるで、我々のようではないか。

土から今そびえ立つ竹そのものであるか、竹ノコギリと化したものであるか、はわからないが。

道具と化した時から、竹は、槍にも、ノコギリにも、ランタンにも、湯のみにさえもなるものだ。
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by akikomichi | 2016-07-02 20:33 | 詩小説 | Comments(0)