地域の生活保護費番付 

【地域の生活保護費(負担?)番付】 


神奈川の場合
http://area-info.jpn.org/SehoPerPop140007.html

京都の場合
http://area-info.jpn.org/SehoPerPop260002.html

大阪の場合
http://area-info.jpn.org/SehoPerPop270008.html

福岡の場合
http://area-info.jpn.org/SehoPerPop400009.html

千葉の場合
http://area-info.jpn.org/SehoPerPop120006.html

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市「過度な飲酒、パチンコ慎むように」「従わぬなら生活保護停止も」 市民苦情受け掲示 /四街道
 四街道市が生活保護受給者に対し、過度な飲酒やパチンコを慎むよう促した上で、指導に従わなければ生活保護を停止する場合がある、との趣旨の文書を約2年間、担当課の窓口に掲示していたことが6日までに、市への取材で分かった。受給者が飲酒やパチンコをすることを禁じる直接の規定はなく、市は「誤解を招きかねない内容」と認め、撤去した。受給者の支援団体は「行政と受給者の信頼関係を失わせる行為で、行き過ぎだ」と、市が掲示を続けてきたことを批判している

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国民が生活保護費を負担をしている限りにおいて、国民が「過度な飲酒、パチンコ慎むように」「従わぬなら生活保護停止も」と望むことは、当たり前のことと思われるが、何が問題なのであろうか。

余裕がない生活をしているのは誰でも同じであるというのに。

必要最低限の生活のためではない、健康を損ねる元になっている過度の飲酒、不必要なギャンブルのために、無駄に使われることに、国民が反対する権利がある。

悪法がまかり通るのは間違っている。

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今の日本がおかしいのは、このような武装勢力が日本の主要な場所を不法に占拠したことも発端であることから、目をそらしてはいけない。

それを差別という一言でごまかしてはならないのである。

事実は事実である。

その不法占拠を取り戻すことが必要であるのは言うまでもない。

お花畑はもう結構。

事実と向き合う。

嫌な事実であれ、日本の事実である。

何度でも言うが、戦後のどさくさに紛れて不法に占拠された場所を取り戻すことが必要である。

それが真の人権ではないのであろうか。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-748.html 

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wikiより以下抜粋

https://ja.wikipedia.org/wiki/浅草米兵暴行事件

浅草米兵暴行事件(あさくさべいへいぼうこうじけん)とは、1951年3月21日に連合国の占領下にあった日本の東京都台東区浅草千束町[1]で発生したアメリカ軍兵士を標的とした暴行殺人事件。

事件に先立って、3月2日には密入国者を中心とした朝鮮人408名が、建国して間もない大韓民国に強制送還されており、これを不服とした北朝鮮系の在日朝鮮人の間には、アメリカやイギリスを中心とした連合国の占領軍に強い不満があった[1]。
事件現場となった「朝鮮マーケット」は、当時旧朝連系の在日朝鮮人が牛耳っていた。朝鮮マーケット内には、「強制送還反対」「民主民族戦線」などのビラやポスターが多数貼られており[1]、韓国系よりも北朝鮮系の朝鮮人が多数を占めていた[1]。付近では、1950年3月に「台東会館事件」が発生しており、「朝鮮マーケット」もその際に一斉捜索を受けて逮捕者を出している「いわく付き」の地域であった。
事件の概要[編集]
1951年3月21日午前3時30分頃、東京浅草国際劇場向かい側の浅草千束町[1]にあった闇市通称「朝鮮マーケット」内の在日朝鮮人経営の旅館に6名のアメリカ軍兵士が宿泊していたところ[1]、旅館のオーナーたちと口論になった。その際にアメリカ軍兵士1人がハサミで切り付けられ負傷した。他のアメリカ軍兵士が負傷したアメリカ軍兵士を車に乗せて脱出しようとしたところ、100名ほどの朝鮮人たちに投石された。そして200m進んだところで包囲され、コンクリートの塊を投げつけられるなどして車を大破された。この時にアメリカ軍兵士1人が即死している。
所轄の浅草警察署は、警視庁予備隊(現在の機動隊)に出動を要請した。予備隊はただちに現場に駆けつけ暴徒を解散させた。50名の朝鮮人を検挙した[1]。
この事件でアメリカ軍兵士1人が死亡、1人が重傷、2人が軽傷を負った。被害者がアメリカ軍兵士であることから、ポツダム命令の連合国人に対する刑事事件特別措置令の規定により、アメリカ軍が直接捜査を行い、在日朝鮮人17人を検挙した。この事件は「帝都の治安上ゆゆしき問題である」として国会でも取り上げられ、朝鮮人の送還についての議論がなされた[1]。
参考文献[編集]
『毎日新聞』1951年3月22日朝刊・夕刊
『朝日新聞』1951年3月22日朝刊
脚注[編集]
^ a b c d e f g h “第010回国会 法務委員会 第12号”. 衆議院. 国立国会図書館 (1951年3月22日). 2010年3月21日閲覧。
カテゴリ: 在日韓国・朝鮮人の事件占領下の犯罪朝鮮戦争在日米軍昭和時代の殺人事件 (戦後)米朝関係史浅草の歴史1951年の日本の事件戦後の東京

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渋谷警察署事件

渋谷事件(しぶやじけん)は、1946年(昭和21年)7月19日午後9時、東京都渋谷区渋谷の渋谷警察署前で起った抗争事件である。警視庁渋谷警察署、暴力団の落合一家、暴力団の武田組および愚連隊の万年東一一派の連合隊と、武装した在日台湾人グループとの間に発生した。
渋谷警察署を襲撃した在日台湾人を、渋谷警察署・落合一家・武田組・万年一派が迎え撃ったとする説と、渋谷駅に帰宅中の在日台湾人を、渋谷警察署・落合一家・武田組・万年一派が突然一方的に襲い掛かったとする2説がある[1]。

連合隊
警視庁渋谷警察署
土田精 - 同署長
渡辺 - 同署部長刑事
芳賀弁蔵 - 同署巡査部長(殉職)
村上義弘 - 目黒警察署巡査(被弾・重傷)
暴力団・落合一家
高橋岩太郎 - 同一家総長
安岡 - 同一家舎弟
暴力団・武田組
武田一郎
愚連隊・万年東一一派
万年東一
内富義之
小林光也
対象
在日台湾人グループ
死者 : 事件当日2名(合計7名)
重軽傷者 : 34名
事件発生まで[編集]
背景[編集]
1945年(昭和20年)11月3日、GHQは、朝鮮人および台湾省民を「できる限り解放国民として処遇する」と声明した[2]。
このころ、渋谷区宇田川町の闇市の一画に、華僑総本部が作られた。華僑総本部は、闇市に何軒かの飲食店を持った。その後、渋谷警察署署長・土田精(後の警視庁予備隊初代隊長)は、渋谷警察署署員に命じて、華僑総本部が闇市で販売している禁・統制品物資を没収し、不法建築家屋を取り壊した。すぐに華僑総本部は、新たな闇物資を売買し始め、再び不法建築家屋を建てた。華僑総本部の多数の者が集団で渋谷警察署に押しかけ、華僑に対する取締りを止めるように激しく抗議した。それから、闇市を通った警察官に対する華僑総本部の者の集団暴行が繰り返された。1946年(昭和21年)4月1日には、台湾人たちは道玄坂下から渋谷消防署に向けての一帯を台湾人街として、凱旋門を建て始めた[1]。
同じころ、東京新橋の闇市「新生マーケット」では、関東松田組(組長は松田義一)が、在日外国人を締め出そうとして激しく対立していた。同年6月10日、松田義一が、松田の舎弟に射殺された。松田義一の妻・松田芳子が関東松田組二代目を継いだ。
同年6月16日、在日台湾人の武装集団が関東松田組事務所や建設現場に殴りこみ、1人が死亡、1人が重傷を負った。警察とMPが介入した。
同年7月16日、関東松田組組員が日本刀などを持って、渋谷宇田川町の在日台湾人経営の喫茶店に殴りこみ、在日台湾人50人と乱闘となった。8人が重軽傷を負った。関東尾津組・尾津喜之助組長が、斡旋に乗り出したが、不調に終わった。すぐ渋谷警察に「在日外国人が、関東松田組事務所、渋谷警察署、警視庁の襲撃を計画している」という情報がもたらされた。
同年7月17日、渋谷警察署は土田精の指揮で、他の警察署からの応援を受け警官200人を動員して、渋谷宇田川町の闇市の一斉取締りを行った。警官隊と在日台湾人との間に乱闘が起き、警察官8人と在日台湾人2人が負傷し20数人が検挙された。
同年7月18日、渋谷警察署は武装警官250人と私服警官30人で、再び渋谷宇田川町の闇市の一斉取締りを行い18人を検挙した。
同日午後、巡回中の刑事3人が、渋谷駅前で台湾省民の団体に暴行を受けた。
1946年7月19日[編集]
同年7月19日午前10時ごろ、土田精は、渋谷警察署の部長刑事・渡辺と渡辺の部下の刑事の2人を、博徒の落合一家・高橋岩太郎総長の恵比寿駅前の事務所に遣わした。渡辺は、高橋岩太郎に「同日に在日外国人が300人以上の人数を集めて、拳銃で武装し渋谷警察署を襲う」との情報が入ったことを告げ、渋谷警察署への助太刀を依頼した。高橋岩太郎は、渡辺に土田精も了解しているのか尋ねた。渡辺は、土田精も了解していると答えた。高橋岩太郎は、渋谷警察署への助太刀を了解した。土田精は、飯島連合会系のテキヤの武田組・武田一郎組長や愚連隊の首領・万年東一の応援も取り付けた。
同日午前11時ごろ、高橋岩太郎は事務所にいた若衆に、他の若衆を集めるように指示した。また、高橋岩太郎は残りの若衆に、若衆の女房や知り合いの女性らを集めさせ、握り飯の炊き出しの用意をさせた。高橋岩太郎は、若衆の佐藤と若衆の岡崎に指示して竹屋から男竹を買ってこさせ、50本 - 60本の竹槍を作らせた。
同日午後2時、高橋岩太郎の事務所には70人余りの若衆が集まった。高橋岩太郎は、集まった者を主力の戦闘部隊約40人、予備隊20人、看護・運搬隊約10人、伝令数人に分けた。高橋岩太郎が総指揮官兼戦闘部隊隊長となった。予備隊隊長には舎弟の安岡が就いた。また同士討ちを防ぐために、全員が白い鉢巻を締め、白い布を腕に巻いた。全員が炊き出された握り飯を食べた。同日午後6時、高橋岩太郎は14年式拳銃を持ち、若衆を率いて、渋谷警察署に向かった。
同日午後3時、万年東一一派の内富義之は東京中野の万年の自宅で、万年の連絡係の者から「喧嘩支度をした上で、渋谷警察署前に集まれ」という連絡を受け取った。内富は、10人ほどの万年一派の者とともに日本刀などを持って、省線に乗って渋谷に向かった。万年は旧式の南部大型自動拳銃を持って、舎弟の小林光也らと渋谷警察署に向かった。万年一派10数人が渋谷警察署前に集合すると内富は日本刀を、万年一派のそれぞれに配った。
同日午後6時20分ごろ、落合一家は渋谷警察署(当時は明治通り沿いの並木橋付近にあった)に到着し武田組や万年一派と合流、30坪ほどの広さの道場で休息した。総勢120人 - 130人だった。それから高橋岩太郎、武田一郎、万年東一は、渋谷警察署の首脳陣と作戦を練った。道路の両側に配置すると銃撃戦になった場合、流れ弾が道路の反対側にいる味方の方に飛んでいく可能性があるため、全員が渋谷警察署前の道路に渋谷警察署側に配置する陣形を取ること、高橋岩太郎たちは渋谷警察署の左の疎開地跡に配置することなどが決まった。万年東一一派10数人は、渋谷警察署の左にあった電柱の後ろの深い溝の中に、1列になって待機した。高橋岩太郎は戦闘隊を前に出し、予備隊と看護・運搬隊を後ろに配置して不良在日外国人の襲撃を待った。渋谷警察署は近隣の警察署にも応援を求めていたので、渋谷警察署周辺には400人近い警察官が待機した。土田精は、警察官にサーベルの使用を禁止した。
同日午後8時、渋谷警察署に「在日台湾人の120人 - 130人の部隊が、ジープ1台と乗用車1台とトラック5台に分乗して華僑総本部を出発し、渋谷駅方向に向かっている」との報告が入った。その後、「在日台湾人の120人 - 130人の部隊は、渋谷を通過して青山方面に向かった」との報告が入った。このとき、在日台湾人の部隊は100人程度だった。在日台湾人の部隊は、新橋駅前の闇市の利権で台湾の露天商と対立していた関東松田組に対し、台湾の露天商を応援しようとしていた。関東松田組は、新橋に到着した在日台湾人の部隊を、戦闘機用機関銃で銃撃した。在日台湾人の部隊は新橋から引き上げ、麻布の居留民団[3](中華民国駐日代表団とも[4])に立ち寄ってから、渋谷に引き返した[3][4]。
在日台湾人の部隊が渋谷警察署前に差し掛かったとき、検問の警官隊から停止を求められた。在日台湾人の部隊は「麻布の中華民国弁事処に、闇市での紛争解決の依頼をした帰りだ」と答え、通行を認められて渋谷警察署に向かった。
渋谷事件[編集]
同日午後9時、在日台湾人のジープが先頭に立って渋谷警察署の前を通過した。2台のトラックが通過し、3台目のトラックが渋谷警察署前にいた土田精の直前に来たとき、突然銃声が響いた。何者かの発砲により芳賀弁蔵巡査部長が胸部を撃たれた。この件に関して、「埼玉県連絡会」第17号記事抜粋によれば、林歳徳は「警察とヤクザ連合が、台湾人を襲撃してきた」と主張している[4]。芳賀巡査部長は病院に運ばれる途中で死亡した。
高橋岩太郎らは後続の在日台湾人のトラックに向けて発砲した。万年東一も発砲しながら飛び出していった。最後尾のトラックの運転手・范が頭部を撃たれて死亡した。運転手を撃たれたトラックは、渋谷警察署前の道路の反対側にあった民家に突っ込み横転して炎上した。他のトラックに乗っていた在日台湾人が、横転したトラックに乗っていた同胞を助けようと荷台から降りた。高橋岩太郎の戦闘部隊や万年東一一派は、トラックから降りてきた在日台湾人に斬り込んだ。その後、在日台湾人は逃げた。高橋岩太郎たちは捕まえた在日台湾人を渋谷警察署に引き渡した。渋谷警察署は在日台湾人28人を逮捕し、拳銃3丁と実弾30発、鉄棒4本、ジャックナイフや棍棒、火炎瓶などを押収した。土田精は渋谷警察署署員を走らせ、高橋岩太郎にMPが来るのですぐに立ち去るように伝えた。高橋岩太郎たちは、渋谷警察署裏の氷川神社に移動した。それから、高橋岩太郎たちは恵比寿駅前の事務所に戻った。万年東一たちは日本刀を氷川神社や國學院の地中に埋めてから、中野の万年の自宅に戻った。
同日午後11時ごろ、高橋岩太郎たちは事務所に到着した。警察側の拳銃発砲者は、土田精を始め90人で警察側が発砲した実弾は245発だった。村上義弘目黒警察署巡査が腰に被弾し、重傷を負った。警察側の死者は、芳賀弁蔵1人だった。在日台湾人の死者は、全部で7人(当日の死者は運転手・范を含めて2人)、重軽傷者は34人だった
裁判まで[編集]

事件で殉職した芳賀弁蔵巡査部長の葬儀を行なった長泉寺(神宮前6丁目25番12号)、2009年撮影。
同年7月20日午前11時ごろ、渋谷警察署署員2人が恵比寿駅前の高橋岩太郎の事務所を訪ねてきた。同日正午、高橋岩太郎は自宅で起床し、事務所に出て、渋谷警察署署員から労いの言葉をもらった。
同年7月21日、同日付の朝日新聞が「警官と台湾省民が拳銃の撃ち合ひ 渋谷駅附近・死傷十六名」と事件後初めて、同事件を報じている[1]。当時、報道はGHQの検閲下に置かれ、報道が遅れたのもそのためであった[5]。
同年7月22日、高橋岩太郎は、渋谷神宮通りの長泉寺で行われた芳賀弁蔵の葬儀に参列した。
その後、GHQ法務局は「占領目的を阻害した」との理由で、渋谷事件などで逮捕した在日台湾人41人を軍事裁判にかけた。在日台湾人の訴えにより、土田精ら3人も渋谷事件に関して軍事裁判にかけられた。軍事裁判において土田精は、全警察官に対しサーベルの所持を禁止したことを証言した。検事は在日台湾人の1人が刀の刺し傷で死亡したことを根拠に、土田精を追及した。土田精は「在日台湾人が刀で刺殺された事件は、渋谷事件と同じ時刻に渋谷警察署近くで起こったが、渋谷事件とは別の殺人事件である。刺殺された在日台湾人は渋谷事件で死亡したのではない」と主張した。土田精は、渋谷警察署がヤクザに応援を頼んだことが発覚するのを恐れた。
同年8月下旬、渋谷警察署・渡辺部長刑事が、渋谷代官山の高橋岩太郎の自宅を訪ねた。渡辺部長刑事は高橋岩太郎に、在日台湾人刺殺犯人として渋谷警察署に自首して、刺殺された在日台湾人が渋谷事件での被害者ではないことを証言してくれるように懇願した。高橋岩太郎は即答をせず、後日返答すると答えた。数日後、高橋岩太郎は渡辺部長刑事を恵比寿駅前の事務所に呼び、渡辺部長刑事の頼みを了承することを伝えた。高橋岩太郎と渡辺部長刑事は1週間をかけて、供述調書を作成した。高橋岩太郎は、渋谷警察署からの連絡が入るまで待つことになった。
その後、渋谷事件の軍事裁判で、土田精は「現在、日本は立法・行政・司法等すべての国政は、占領軍の指揮下にあります。我々もまた占領軍司令官の命令に忠実に従って行動を起こしたまでであります」と答弁した。これは、渋谷事件に関与した警官を罰することは、占領軍司令官にまで責任が及ぶということを示唆している。渋谷事件の軍事裁判では殺人犯を追及せず、責任者も不問にするとの判決が下された。
同年11月ごろ、渡辺部長刑事が高橋岩太郎の自宅を訪ねてきた。渡辺部長刑事は高橋岩太郎に、渋谷事件の軍事裁判の結果と高橋岩太郎が渋谷警察署に自首する必要がなくなったことを伝えた。
その後[編集]
同判決を受けて、在日台湾人の政治団体は反対集会を開き、また台湾でも、学生を中心に抗議行動が起きている[6]。
いっぽう渋谷では、闇市は「復興マーケット」と称して改善に向かった[1]。東京都は、1950年(昭和25年)までにすべての露天商を公道から排除する方針を固め、1951年(昭和26年)12月31日、それを完了した[1]。
土田精は、警視庁最高功労章を授与された。
脚注[編集]
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^ a b c d e 七尾[2011], p.160-169.
^ 『やくざ戦後史』猪野健治(ちくま文庫)「第2章 つくられた抗争」33p
^ a b 山平[2004], p.105.
^ a b c 第17号記事抜粋、埼玉県連絡会、インターネットアーカイブ、2005年11月27日付、2013年8月15日
^ 読売[1981], p.31.
^ 丸川[2010], p.46.
参考文献[編集]
『「再軍備」の軌跡 昭和戦後史』、読売新聞社、1981年9月 ISBN 4643536500
『愚連隊伝説』、洋泉社、1999年 ISBN 4896914082
『不逞者』、宮崎学、幻冬舎、1999年 ISBN 4877287345
『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』、山平重樹、幻冬舎、2004年 ISBN 434440596X
『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』、丸川哲史、講談社、2010年5月7日 ISBN 4062584727
『闇市の帝王 王長徳と封印された「戦後」』、七尾和晃、草思社、2011年8月5日 ISBN 4794218443
外部リンク[編集]
渋谷駅周辺 - 昭和毎日(毎日新聞)、宇田川町・並木橋の位置関係を示す近辺地図(1956年)
並木橋 - 同上、1962年2月17日(池田信撮影)
関連項目[編集]
浜松事件 (抗争事件)
カテゴリ: 日本の暴動事件占領下の犯罪渋谷区の歴史警察官が殉職した事件・事故1946年の日本の事件戦後の東京

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富坂警察署襲撃事件(とみさかけいさつしょしゅうげきじけん)とは、1946年(昭和21年)1月3日に東京都小石川区(現・文京区)で発生した暴動事件である。 終戦直後の混乱もあって犯人逮捕・特定には至らず、未解決事件となった。

1945年12月30日、警視庁富坂警察署は管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者として在日朝鮮人3人を逮捕した。当時の富坂警察署は戦災で焼失しており、小石川国民学校の校舎を間借りしている状態であったため、3人の容疑者は警視庁本部と大塚警察署の留置場にそれぞれ留置されていた。
翌1946年1月2日、容疑者のひとりを富坂警察署へ護送して取り調べた後、署内の留置場に留置した。
事件の概要[編集]
1946年1月3日正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。
危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。
交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。
在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した。
その後の顛末[編集]
警視庁は、全力をあげて事件の捜査にあたったが、終戦直後の混乱もあって逮捕には至らなかった。


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別府市警察署事件(べっぷしけいさつしょじけん)とは、1953年(昭和28年)2月19日に、大分県別府市で発生した事件。

事件の概要[編集]
1953年2月19日、民戦別府支部員の在日朝鮮人男性が泥酔して、通行中の女性の羽織を強奪したり通行人に因縁を付けていたため、別府市警察は男性を逮捕して署内へ留置した。男性は2月21日午前11時になって容態が急変し、死亡した。
死亡直後から、朝鮮人たちが続々と警察署に集結し、男性の死を警察官のリンチによる殺害と決め付けた一方的なデマを流し始めた。彼らは署内の道場に居座って一夜を明かした。
2月22日になると、「ファッショ別府市警の撲殺事件の真相」「人殺し別府市警に全市民は抗議せよ」と題するビラを市内各地に配付し、警察署前では民戦や日本共産党の活動家らが終日に渡って抗議活動を行った。
2月23日は、署内で検視が実施された。民戦側は検視への立会いを要求、警察もこれに同意したため、検視そのものは平穏に終了した。
2月24日に葬儀が執り行われ、約300人が参列した。葬儀後、棺を先頭に別府市街をデモ行進して警察署に突入しようとしたため、警官隊と衝突した。
男性の死因とその後の顛末[編集]
男性は逮捕前に駐留軍警備員に因縁を付けて背負い投げの返り討ちにあっていた。司法解剖では、「死因は通行人に頭突きし続けたことによる脳出血及び吸引性窒息」という鑑定結果が出た。
自業自得による事故死と判定されたため、駐留軍警備員は正当防衛と判定され、署員は不起訴となった。民事訴訟も民戦側の敗訴に終わった。
参考文献[編集]
『大分県警察史』(大分県警察本部教養課編 1963年)


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平事件(たいらじけん)とは、1949年6月30日に、福島県平市(現在のいわき市平)で発生した公安事件。

1949年4月13日、日本共産党福島県石城地区委員会は、平市警察(現在のいわき中央警察署)に、宣伝用の掲示板を設置するために道路一時使用許可申請を出した。
平市警察はこれを受理・許可したが、この掲示板は平市街地にあったため、予想外の人だかりができ、交通の障害となったため、許可の取り消しをしたところ、「政治運動に対する弾圧」として共産党が反発し、平市警察と対立するようになった。
勃発[編集]
1949年6月30日早朝より、共産党員や在日本朝鮮人連盟の朝鮮人を動員し、湯本町や内郷町(両町とも現在のいわき市)の自治体警察に押しかけて、平市警察に応援を出さないことを確約させた後、午後3時30分頃にトラックで平市警察署に押しかけた。
群集はインターナショナルを歌いながら気勢を上げて署内に乱入した。午後6時頃になると署長室だけでも80人が侵入するなど大混乱に陥った。侵入を阻止しようとする署員に対しては殴る蹴るの暴力を加え、署の窓ガラスを次々と割っていった。
群集の一団は留置場にも侵入し、先程逮捕され留置された者を奪還、逆に警察官を留置場に閉じ込めた。群集は公安委員会の招集と署長の辞職を要求した。
この間、署の玄関に赤旗を交差させて掲げ、「人民警察ができた」などと呼号したり、市内各所に検問所を設けて警戒に当たるなど無警察状態に陥った。
午後11時頃になって、近県より警察の応援部隊がやってくるという情報が入ったため、ようやく解散した。
その後の顛末[編集]
国家地方警察の応援の下、平市警察署に捜査本部が設けられ、231人を騒擾罪の容疑で検挙した。そのうち159人が起訴された。
一審では騒擾罪が認められなかったが、二審の仙台高等裁判所で逆転有罪となり、1960年に最高裁判所は上告を棄却し、有罪が確定した。
参考文献[編集]
『在日朝鮮人運動(実務教養選書)』(篠崎平治 1955年)
『福島県犯罪史(第4巻)』(福島県警察本部 1968年)
『戦後警察史』(警察庁警察史編纂委員会編 1977年)
『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』(李瑜煥 1980年)

騒乱罪
常磐炭田
松川事件 - 下山事件 国鉄三大謀略事件と呼ばれるうちの2つ。松川事件は同じ福島県内、下山事件は沿線である常磐線が関連する。発生時期も近い。
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by akikomichi | 2016-06-07 14:25 | 日記 | Comments(0)