『成人式』

成人するには20年いるらしい。
四十歳は二倍の数を生きているので、成人✖️2で二成人。
六十歳は三倍で、成人✖️3は三成人。

私は二成人目に入って久しいが、二度ほど成人したと言えなくもないとはいえ、大人になったと言えるかどうかは定かではないのであるが、とりあえずは、二人の子どもを育てていることで、少しは大人になった気がしているのは確かではある。

子どもを見ながら、自分の育った軌跡を後追いするように、ついていくしかできないにしろ。

一度目の人生の途中で、二度目の人生を過ごしているような同時進行的な心持ちで。
彼らにしてみれば、その一度目の人生を過ごしている彼らの中の血肉の半分の素養を持っているものが、傍にいて、自分のできることできなかったことを、お互い、確認しながら、どちらに進むのか、考えあぐねながらも、先を見て、ともに暮らしている。

離れ離れになろうとも、彼らの中に、自分は住んでいる。

夫とは、成人になるかならない頃から友人であり、連れ合いであるから、一成人以上の年月を一緒に過ごしていることになるが、自分を彼の中に、見ることはない。

彼は彼、自分は自分である。

しかし、子どもたちの中には、いつでも自分を感じることができるのは、血肉を分け合ったというより、自分の中にいた、自分の血肉を臍の緒を通じて、じっくり送り込んで、育んだという、原材料としての自分が、再生産的過程を、自分の空洞を無理に押し広げて作った風船の中で、膨らまし続けて育んだ血肉の結晶が彼らなのであるという自感覚からではある。

彼らは、まだ成人していない。

彼らが成人した時、自分は、三成人にはまだまだ届かないが、二成人ともう一人の成人を合わせて、三成人とはなる。

そうやって、人は増殖し、増幅していく自分を数えては、死んで零になって、逝くのだ。

一つの例題として。

空洞になった腹の記憶が破裂するように、零に戻るのだ。


ところで、埴谷雄高が、子どもを作らなかったのは、なんで人は生まれたのか、人はなんで生きているのか、わからないうちは、そのようなことはできないというようなことを言っていたが、わからないまま死んでいくのが、人であると思えるようになったのは、ある一人の狂人のおかげである。
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by akikomichi | 2016-06-03 20:04 | 詩小説 | Comments(0)