『水道管ひとつの違い』

水道管を間違えたていたという。

手洗いの水が濁っていたので気がついた先生がいたので、表沙汰になったが。

飲水にも、手洗いにもしていた水に、トイレに流す用の水が流れていたという。

その水で手洗いし、時に顔も洗い、頭からかぶっていたり、給食後に口を濯ぐことも、飲んだこともあったこどもたちであったが。

あまりにつらいので、たまりかねて上の子が内科に行くと腸内の風邪をひいたと言われた。

いつもお腹の痛みを訴えていた。

同じ食べ物を食べて、自分はなにもないので自分が図太すぎるのかと思ったりしたが、単に私の作るものが影響しているとは思えなかったのも事実であった。

しかし、なるべく無害のものを食べさせていたはずのこどもたちが、口にあわないものがあったり、内外ストレスによるものかと、内心、穏やかでなかった。

下の子上の子どちらとも試験の時など最悪のコンディションであったのはもちろん、体育館に長時間並ぶ時の腸内環境の悪化の恐怖を語っていたが、それは、個人的な問題として、精神的なものかとも思われていたが、「単なる水道管の繋げ間違いによる」腸内の慢性的な風邪だった可能性もあったと知り、愕然とする。

上の子が学校を卒業したらぱたっと腹痛がなくなったのには、なにか関連があるのだろうかとは思っていた。

通学時にも駆けこむこともあり、学校についていないと電話があり、探しまわったりしたこともあったが、腸内環境の悪化でやらかしたこともあり、人生終わったと落ち込んでいた下の子の腸内環境が良くなったら、その疑いは、確信に変わるであろう。
現に変わりつつあるのだが。

報道では誰も訴えていないというのだが、原因はわからないまま、現象として、そういった事例があったのは、間違いないのだが、どうしたものであろうか。

何でも訴えて、金銭問題にする、被害者ヅラをし訴訟するのは憚られるが、たったひとつの繋げ間違いが、ひとの人生を左右するということも、肝に銘じてほしいものである。

それにしても、その子の未来を左右することがあるということで、なんでも事なかれ主義で、間違ったが、これといった問題はないで済まされると、なんともいえない不信感が募るのは、私だけであろうか。


ところで、先日、夢でうなされて助けてと叫んでいたところをつれ合いに揺り起こされてなんとか助かった気になったのを思い出した。

その夢というのが鮮烈で、気色の悪い粘ついたものだったので、あえて日記に書き記していたので、記憶に新しかったのだが。

体操服を洗おうとしていると、タグが一つ違いの名前になっていて、自分のこどものようでこどもではない一つ違いの名前のものが、私のお腹周りを這いずり回りとても気色の悪い夢であったのだが。

夢のお告げと言うつもりは毛頭ないが、夢分析的なユング的に言えば、夢は象徴的なものなのであり、この無意識的に受け取っている恐怖のようなものを、表しうる可能性はあると思われる。

ユングにおいては、夢を見たものの、その象徴たるものを、ひたすら本人に因って腑に落ちるところまで意識をもっていくことで、劇的な治癒に向かうという事例を幾つも、臨床現場において体験されており、今回の夢においては、この一連の水道管「ひとつの間違い」と言う点において、自分のなかで、腑に落ちるものがあったということである。

人は多かれ少なかれ、精神的身体的な問題を持っているものであり、それを十把一絡げに異常視するのには、抵抗がある。

ユングは、そういった面において、人の危機に関しての解決方法としての夢の分析を突き詰めている点において、群を抜いていると思われる。

全てを性的なものに収斂するだけで解決にはいたらないことが多いフロイトでは納得いかなかったものへの、ひとつひとつに違うこの世界の捉え方の形を見せてくれる柔らかい認識を持たせてくれ、なんとか、世界認識の一致、あるいは合致による昇華を志すのが、ユング的思考であった。

なんだかわからないトランス的な詩や夢には、無意識に訴えかけることに因って、これから起こることを、暗示する傾向は無きにしもあらずなので、今後とも、印象的な「明晰夢」は記録していき、その後の現象の布石のような布置のようなものの行方を探していくこととする。







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by akikomichi | 2016-04-29 14:32 | 詩小説 | Comments(0)