『文化大革命の昼ごはん』

 1968年7月1日、文化大革命の畝る中、武宣県の桐嶺中学校副校長・黄氏は、糾弾大会で吊るしあげられて、虐殺されたという。

 学校の食堂や廊下やその他の場所で、人肉料理として、煮たり焼いたりして振る舞われたという。

 こういったことを、得意気に語るというのは、いま流行りのヘイトというやつにかてごらいずされてしまうたぐいのものであるかもしれないが、えてして、「悪意のある行為」というものは、恐怖を噛み砕いたものである。

 その教師は生徒たちにとって、あるいは同僚である教師たちにとっても恐怖でしかなく、その恐怖が暴走した、究極の形が、食肉化であったと思われる。

 日本の昔話の「三枚のお札」に出てくる、山姥を豆に化けられるかと言い、化けたところでパクっと喰らう和尚さんのように、恐怖を飲み込んでしまえば、それは、ただの食べ物でしかなくなる。

 恐怖との「同化」ということかもしれない。

 が、同時に、己の血肉と化したその人の塊というものは、悪意を超えたものになる。

 「黃先生、意外といける、いけてる」

 「生きてる時は最悪だったけど、死肉になったら最高」

 などといっているうちに狂気は人肉から人に同化し、何事もなかったように、「文化大革命の昼ごはん」の用意を推し進めたのかは知らないが。

 物語化されたものは、恐怖を、何事もなかったようにする、ひとつの狂気なのである。

 きみは、物語に喰われる。

 いずれ。

 何事もなかったように。

 同化して。

 血肉化された言葉の塊になるのだ。
 

[PR]
by akikomichi | 2016-02-23 16:08 | 詩小説 | Comments(0)