中国共産党が逃走したのは歴史的事実。

中国共産党が、助けることもせず国民党軍と日本軍がお互いを潰し合うように「戦闘」をさせて喜んでいたのも事実。

決して、「虐殺」ではなく、国民党軍と日本軍との「戦闘」であったのも紛れもない事実である。

ここでは「日本軍」の戦没者名簿も必要である。

中国の戦没者名簿だけでは、戦闘した方々の霊は報われない、決して。

ユネスコが公平性を保ち、真のやるべき仕事とは、日本兵の名簿も集め、戦争で亡くなったすべての方々の供養をすることである。

二度とこのようなことが起こらないようにしたいのならば。

間違った方向に行くべきではない。



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ユネスコが「南京大虐殺」資料を世界記憶遺産に登録することを決めた。中国の歴史問題への逆走が止まらない。実は建国の父、毛沢東は「南京大虐殺」を教科書で教えることも、口にすることも嫌がった。なぜか―?

◆なぜ毛沢東は「南京大虐殺」に触れたくなかったのか?

毛沢東は生きている間、「南京大虐殺」に触れることを嫌がったし、教科書にも載せようとしなかった。(日本語では「南京事件」と称するが、ここではユネスコで登録されたことと、毛沢東の「南京大虐殺」に関する見方を考察するので、中国流の「南京大虐殺」という文言を用いる。追記:中国語の原語では「南京大屠殺」だが、その日本語訳は「南京大虐殺」となる。中国にはそれ以外にも1927年3月にコミンテルンの陰謀とされる「南京事件」があるので、それと区別する意味である。

なぜなら、「南京大虐殺」が起きた1937年12月13日前後、毛沢東ら中国共産党軍は、国民党軍も日本軍も攻撃にこれらないほどの山奥に逃げていたからだ。そこは陝西省延安の山岳地帯。南京の最前線で戦っていたのは蒋介石率いる国民党軍だった。

毛沢東らはそもそも、1937年7月7日に起きた盧溝橋事件(日中戦争が本格化した事件)の第一報を受けると「これで国民党軍の力が弱まる」と喜んだと、1938年年4月4日まで延安にいた(共産党軍の)紅第四方面軍の軍事委員会主席・張国トウ(トウ:壽の下に点4つ)が『我的回憶(我が回想)』で記録している。

中共中央文献研究室が編纂した『毛沢東年譜』を見ても、この日付の欄には、ただひとこと「南京失陥」(南京陥落)という4文字があるだけだ。その前後は1ページを割いて1937年12月9日から12月14日まで開催していた中共中央政治局拡大会議のことが書いてあり、13日に4文字あったあと、14日からはまた雑務がたくさん書いてある。

「南京大虐殺」に関しては「ひとことも!」触れていない

『毛沢東年譜』は毛沢東の全生涯にわたって全巻で9冊あり、各冊およそ700頁ほどなので、合計では6000頁以上にわたる膨大な資料だが、この全体を通して、「南京大虐殺」という文字は出てこない。1937年12月13日の欄に、わずか「南京失陥」という4文字があるのみである。

翌年も、翌翌年も、そして他界するまで、ただの一度も「1937年12月13日」の出来事に触れたことはなく、この「南京陥落」という4文字さえ、その後、二度と出て来ない。

毛沢東は完全に「南京大虐殺」を無視したのだ。

そこに触れれば、中国共産党軍が日本軍とは、まともには戦わなかった事実がばれてしまうことを、恐れたからだろう。そして国民党軍の奮闘と犠牲が強調されるのを避けたかったからにちがいない。

◆中国大陸のネット空間では

いまごろになって、中国大陸のネット空間には、「なぜ毛沢東は南京大虐殺を教えたがらなかったのだろうか?」とか「なぜ毛沢東は南京大虐殺を隠したがったのだろうか?」といった項目が数多く出てくるようになった。

たとえば大陸の百度(baidu)で検索した場合、「毛沢東 南京大虐殺」と入れると、日によって異なるが200万項目ほどヒットする。そのほとんどは、この疑問への投げかけだ。

中にはきちんと中国建国以来、いつまで南京大虐殺を隠し続けたかを調べた人もいる。この種の記事は多いが、信じていただくために一つだけ具体例を挙げよう。

2014年12月31日付の西陸網(www.xilu.com)(中国軍事第一ポータルサイト)で「毛沢東時代はなぜ南京大虐殺に触れなかったのか――恐るべき真相)」というタイトルで陳中禹(う)という人がブログを書いている。 

彼は1958年版の『中学歴史教師指導要領』の中の「中学歴史大事年表」の1937年の欄には、ただ単に「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」とあるのみで、一文字たりとも「南京大虐殺」の文字はないと書いている。この状況は1975年版の教科書『新編中国史』の「歴史年表」まで続くという。

ちなみに、毛沢東が逝去したのは1976年。陳氏によれば、1979年になって、ようやく中学の歴史教科書に「南京大虐殺」という文字が初めて出てくるとのことだ。

他の情報によれば「1957年の中学教科書にはあったが、60年版では削除されていた」とのこと。実際、確認してみたが、たしかにその時期、南京大虐殺を書いた教科書が江蘇人民出版社から出たことがある。しかし、その後消えてしまっている。

200万項目ほどヒットする関連情報の中に、「1980年代に入ると日本の歴史教科書改ざん(美化)問題があったため、中国の一般人民は初めて南京で日本人による大虐殺があったことを広く認識し始めた」というのが多い。それによれば人民日報が初めて「南京大虐殺」に関して詳細に解説したのは1982年8月で、その書き出しは「日本の文部省の歴史教科書改ざん問題」から始まっているとのこと。

そのため大陸の多くのネットユーザーは、「中国人民は日本の右翼に感謝しないとねぇ。なんたって、彼らがこうやって歴史歪曲を始めようとしなかったら、中国人民は永遠に南京大虐殺のことを知らないまま、生きていたのかもしれないんだから」と、皮肉を込めて書いている。

ちなみに、「南京大虐殺記念館(中国名:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)」は、日中戦争勝利40周年記念に当たる1985年8月15日になって、ようやく建立された。

なお、靖国神社参拝批判が80年代半ばから盛んになった背景にも、こういった毛沢東の「抗日戦争(日中戦争)観」が関わっている。

◆習近平政権になってから異常に加速する「歴史カード」

今年8月25日付けの本コラムで「毛沢東は抗日戦勝記念を祝ったことがない」と書いたが、習近平国家主席は、9月3日の抗日戦争勝利70周年記念日に中国建国後初めて軍事パレードを挙行しただけでなく、「南京大虐殺」に関してもユネスコが世界記憶遺産に登録認定するところまで漕ぎ着けた。

習近平政権になってから、中国共産党による日中戦争時の歴史改ざんは加速するばかりである。言葉では「世界平和のため」と言っているが、その実、「日本の戦争犯罪を世界共通の認識」へと持っていき、反日意識を全世界に広げる効果をもくろんでいる。

なぜなら日米が中心となってTPPなどの手段で「普遍的価値観」を世界的に普及させ中国包囲網が思想的に出来上がっていくのを切り崩したいからだ。そのためには「日本の歴史認識カード」は都合の良い切り札になるのである。

その証拠に10月10日、中国外交部の華春瑩・副報道局長は「南京大虐殺は国際社会が公認する歴史事実となった」と述べたことに注目しなければならない。

◆中国に関する日本人の「歴史認識」の危なさ

問題はわれわれ日本人が、どれだけ正しい中国に関する「歴史認識」を持っているかだ。

今年8月10日付の本コラム「戦後70年有識者報告書、中国関係部分は認識不足」に書いたように、日本の「有識者」は「1950年代半ばに共産党一党独裁が確立され、共産党は日本に厳しい歴史教育、いわゆる抗日教育を行うようになった」と書いている。

日本の政治を動かす、安倍総理のための「有識者」は、こんな程度の「中国に関する歴史認識」しか持っていない。これが日本国民にどれだけの不利をもたらしていることか――。このような状態では日本を守る外交戦略さえ立てることができない。

中国のこの、政治利用とも言える「歴史認識カード」を跳ねのけることができる唯一の道は、日中戦争時代および中国建国後の毛沢東を徹底して研究することである。それ以外に道はない。

それにより中国共産党の真相を正しく客観的に見抜く視点を養えば、ユネスコを説得する力をも持ち得ると固く信じる。

札束と、中共に都合よく歪曲された歴史を世界の共通認識とさせてはならない。

日本の「有識者」が潜在的に中共のプロパガンダに洗脳されていることに気づかない日本政府の怠慢でもある。

なお、本日のコラムに書いた内容は、来月半ばに出版する『毛沢東――日本軍と共謀した男』(新潮新書)で詳述している。出版前に企業秘密のような内容を開示してしまうのはルール違反だが、ユネスコの世界記憶遺産発表を受け、真実を明らかにせずにはいられなく、出版社の許可を得て一部を事前に公開した次第である。