三島の書簡 

今日は命日であります。

どうか、日本をお守りください。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


◇「鏡子の家」の創作過程の一端も


 今年生誕90年を迎えた作家の三島由紀夫(1925~70年)が自衛隊市ケ谷駐屯地で割腹自殺を遂げてから25日で満45年になるのを前に、全集未収録の未発表書簡1通が見つかった。三島作品の翻訳などを通して親交があった日本文学研究者、ドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授(93)に宛てたもので、中期代表作の小説「鏡子(きょうこ)の家」の創作過程などを記す三島研究の空白を埋める大変貴重な資料だ。


 今回の書簡は、数年前にキーン氏が東京の自宅で資料整理した際に発見し、厳重に保管していた。日付は8月2日付で、封筒は紛失しているが、前後の記述から58(昭和33)年と特定できる。同大が管理するキーン氏宛ての書簡は「97通」が公になっており、「三島由紀夫未発表書簡」(98年・中央公論社刊)と「決定版三島由紀夫全集」(2004年・新潮社刊)に収録された。静岡・熱海のホテルの便箋に万年筆で300字余りが記されており、親しみを込めて<ドナルド鬼韻(キーン)様>と当て字を用いている。


 「たくさんの手紙をもらって、私は幸福です」。こう語るキーン氏は、書簡が届く前年に三島が漏らした言葉をはっきり覚えている。「米国で名前を知られるにはどうしたらいいんですか」。その年、キーン氏が翻訳した戯曲「近代能楽集」が米国で出版され半年間単身渡米した際の発言だ。書簡に<サム・ゲルフマン>という自作の戯曲を世界に売り込むために雇った代理人の名前が冒頭に出てくる。全集の編集に携わった井上隆史白百合女子大教授(三島由紀夫研究)によると、当時の三島は米国の代理人と交渉を続けるなど多忙で、その経過がより明らかになった。結局、戯曲のニューヨーク上演は日の目を見ずに、三島は失意のうちに帰国した。


 翌58年6月、杉山寧画伯の長女瑤子さんとお見合いしスピード結婚する。当時の様子は、文芸誌に「日記」(後に「裸体と衣裳(いしょう)」と改題出版)を発表していたが、書簡から新婚旅行で立ち寄った静岡・熱海を、2カ月後に再訪していたことが分かった。当時、前作「金閣寺」を超える話題作を目指して、戦後の若者群像を描いた「鏡子の家」を執筆中。登場人物が熱海沖の初島へ渡る場面もあり、旅行は取材を兼ねて熱海に来たことが書簡によってうかがえる。


 <小説が六枚ばかり進みゴキゲンです>との文面から快調に筆が進んだことが伝わってくる。また<女房は日に灼(や)けるのを心配してばかりゐます>と、12歳年下の新妻をいたわる家庭人としての意識も行間ににじむ。


 井上教授は「キーン氏との友情を示す気の張らない内容に見えるが、過去を振り捨てて高度経済成長路線を疾駆する社会への焦燥感も透かし見える第一級の資料だ」と話している。【中澤雄大】


 ◇三島由紀夫


 本名・平岡公威(きみたけ)。東大法学部在学中に川端康成に師事。卒業後に大蔵省入りしたが、9カ月で退官し文筆生活に入る。主な小説・戯曲に「仮面の告白」「金閣寺」「サド侯爵夫人」「豊饒(ほうじょう)の海」4部作。1960年代にノーベル文学賞候補に名前が挙がったほか、評論、映画など多彩な言論・創作活動を展開。自衛隊体験入隊が話題を呼んだ。70年11月25日、私設軍事組織「楯(たて)の会」会員を引き連れ、自衛隊市ケ谷駐屯地で隊員に決起を促した後、割腹自殺した。


 ◇「鏡子の家」


 1958~59年に書かれた初の長編書き下ろし小説。舞台背景は朝鮮戦争後の昭和30(55)年ごろで、自らの青春を総決算する作品と位置付けていた。サロンを主宰する女主人の元に青年4人(エリート商社マン、ボディービルに励むナルシシストの俳優、無垢<むく>な日本画家、後に右翼団体に入るボクサー)が集まり、夢と挫折を経験する。三島の思想が四者四様に色濃く投影されている。愛着を持った作品だったが、正当な評価を得られず日本文壇に失望、その目は海外へ一層向くようになる。同時に深刻なニヒリズムに陥るきっかけになったとされる。



[PR]
by akikomichi | 2015-11-25 21:56 | 日記 | Comments(0)