村山談話が出された事実を知れば、どれだけ日本国民を愚弄し騙しうちにしているかがわかる

村山談話が出された事実を知れば、どれだけ日本国民を愚弄し騙しうちにしているかがわかる。
国会という場はだまし討にする場であってはならない。
そういった経緯があるならば、無効である。
これによって、村山談話は正当なものではないということがはっきりした。
国民を欺く詐欺行為であり、許されない、日本人を愚弄している談話である。
はっきりと、無効であると、国民が認識していかないといけない。
だまし討で、決議が採択されてはいけない。
それこそ、戦争中よりも質が悪い、嘘で採択され、嘘で塗り固められ、嘘の平和を装った村山談話を押し付けられた経緯を受け入れることは決してない。
卑怯者は去れ。
日本国民は怒っている。



以下、マイミクさんのご紹介のご紹介。



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安倍氏は村山談話採決に欠席したと

 朝日新聞が性懲りもなくまた捏造記事を書いて安倍首相を冒涜している。
村山談話の国会決議を安倍晋三氏が欠席したというのである。

確かに欠席した。
しかし、9日の突然の議員招集と国会開催は騙し討ちだったのだ。
安倍氏もまんまと騙された1人だったのである。

この件は前記事にも書いたが、「諸君」(2005年7月号)で西村真悟氏は次のように書いている。

 「自社さ政権下で、国会における謝罪決議が構想され始めたが、反対の声は超党派で強まり、決議案が上程されても否決が明白になった。すると6月9日の金曜日、“本日は本会議なし、議員は選挙区に帰られたし”との通知が出て、反対派の議員は選挙区に戻った。
 その隙を狙ったかのように、土井たか子議長が金曜日の午後8時近くという時間に、本会議開会のベルを押した。結果として265人の議員が欠席、議員総数509人の半数以下の230人の賛成で決議案を可決。しかし、参議院は採択を見送った」


決議案を提出したのあの売◯奴・山崎拓である。
この話は有名な話であるから、心にとどめておきたい。

朝日新聞(2015/3/4)
安倍氏は国会決議を欠席、村山首相は談話を決断 95年

 20年前、「村山談話」はなぜ生まれたか。
 村山政権で連立を組んだ自民、社会、新党さきがけ3党は、1994年6月の政権発足時、「戦後50年を契機に、過去の戦争を反省し、未来の平和への決意を表明する国会決議の採択などに積極的に取り組む」との合意を交わした。
 決議の文案づくりは翌95年に始まったが、協議は難航。「不戦」や「謝罪」の表現を求めた社会党に対し、自民党慎重派「終戦50周年国会議員連盟」を中心に「後世に歴史的禍根を残す」と反発が広がった。

 同年3月、新人議員の安倍晋三氏が国会で「我が国が一方的に不戦の決議をするのは意味がない」と訴えた。安倍氏は議連の事務局長代理に抜擢(ばってき)されていた。

 3党は6月6日、ようやく合意にたどり着く。不戦や謝罪には触れず、「植民地支配」「侵略的行為」との文言が入った。ただ、妥協の末の決議文は3党それぞれに不満を残した。

 3日後の衆院本会議。決議は賛成多数で採択されたが、与野党から欠席者が続出。安倍氏の姿も議場にはなかった。

全会一致が原則の国会決議が不調に終わり、政権は大きく傷ついた。「これではいけない」。村山富市首相は、首相談話の作成を決意した。

■「おわび」入れるかどうか

 1995年8月15日の「村山談話」につながる動きは、6月9日の国会決議から始まった。
 侵略や謝罪の表現があいまいにされた決議に対し、首相官邸には落胆が広がっていた。「何のために社会党から首相が出たのか、悔しい思いだった」。村山富市首相の政務秘書官だった園田原三氏は振り返る。
 談話作成の検討は、国会決議前からあったものの、それは閣議決定された村山談話とは別のものだった。首相の演説などを担当する内閣参事官室が準備を進めていた。
 しかし国会決議が不調に終わり、村山首相や五十嵐広三官房長官は、より明確な外交メッセージの作成を決意する。書き手に指名したのは官邸で外交を補佐する外務省出身の谷野作太郎・内閣外政審議室長だった。同じく外務官僚で首相秘書官だった槙田邦彦氏は「歴史認識は外交問題と直結する。能力を考えても谷野さんしかいなかった」と回想する。7月上旬、村山首相は谷野氏に「一文を書いてくれ」と伝えた。

 谷野氏は、1週間ほどで草稿を書き上げた。当時の自民党や国会決議があいまいにしていた「侵略的行為」という表現を、最初から「侵略」と明記した。「私自身、『侵略的行為』という表現に強い違和感を持っていた」
 ただ、谷野氏は「おわび」の文言を盛り込むことをためらった。槙田氏も、草稿に「おわび」がなかったことを覚えている。谷野氏は「あの頃、すでに日中、日韓間の主題は謝罪ではないと感じていた」と語る。重要なのは歴史をゆがめることなく次世代に正しく伝えることだと考えた。

 槙田氏の考えは違った。「おわびという言葉を入れるかどうかは、世界が注目している。入れるべきだ」。

五十嵐長官にこう進言し、その場にいた園田博之官房副長官もうなずいた。五十嵐長官からおわびを盛り込むよう指示を受けた谷野氏は、「最終的には政治判断に従った」。こうして村山談話の骨格が整った。

 詰めの作業をほぼ終えた8月7日午前。村山首相、河野洋平自民党総裁のほか、正副長官らが官邸に顔をそろえた。

 村山首相が文案を示すと、河野氏の表情がゆがんだ。「これはなかなか厳しいぞ」。国会決議ですら反発が出た党内を抑えられるのか。翌日に控えた内閣改造では、タカ派の平沼赳夫氏や江藤隆美氏らの入閣も内定していた。河野氏に不安がよぎった。

 自民党の空気を察してか、8日の内閣改造で官房長官に就いた社会党の野坂浩賢氏は、談話を閣議決定して
政府の公式見解とすることを提案する。野坂長官は平沼、江藤両氏や島村宜伸文相らを一人ずつ回り、事前了解を取りつけたと著書「政権」に記している。槙田氏によると、改造前まで運輸相だった亀井静香氏も党内の説得にあたった。

 焦点は橋本龍太郎通産相の意向だった。大物閣僚である橋本氏は、戦後50年国会決議に反発した日本遺族会の会長も務めていた。橋本氏の説得には、村山首相が自ら動いた。
 8月11日、村山首相は首相執務室から橋本氏に電話をかけた。談話を説明すると、橋本氏は「現物を見たい」と言った。
 発表前の談話が通産省に届けられ、村山首相は返事を待った。間もなく、電話が鳴った。2人のやりとりは、「村山富市回顧録」に詳しい。

 村山「あの文案見てくれたか」

 橋本「見た」

 村山「異議はありませんか」

 橋本「別にないですよ。ただ強いて言えば、あの文章を見たら『終戦』と『敗戦』の二つの言葉が使われている。どっちか一本に絞った方がいいんじゃないでしょうか」

 村山「どっちがいいと思いますか」

 橋本「そりゃあ『敗戦』の方がいいんじゃないですか」

 談話には「終戦」と「敗戦」が1カ所ずつあったが、「敗戦」にそろった。槙田氏は「橋本さんのコメントは意外だった」と当時を振り返る。
 8月15日午前10時、官邸の閣議室。野坂長官の「副長官が総理談話を読み上げるので謹んで聞いてください」との発言に続き、古川貞二郎官房副長官が談話を読み上げた。

 古川氏の回顧録「霞が関半生記」に当時の様子が記されている。
 「僕は丹田に力を込めて読み上げた。閣議室は水をうったようにシーンとしていた。だれも発言しない。僕は心底ホッとした」
 午前11時。村山首相は、記者会見で談話への思いを語った。「謙虚に反省し、国民全体としておわびの気持ちを表すことが、50年目の節目に大事なことではないか」=肩書は当時(藤原慎一)

 以下、小泉談話で「国策を誤り」が抜け落ちたという件は省略。
朝日新聞が村山談話を死守したいという気持ちがアリアリと見える記事である。
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by akikomichi | 2015-06-24 19:01 | 日記 | Comments(0)