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『意識と本質』井筒俊彦著

覚書なり。

「無心」は字義どおりの無ーー心ではなくて、かえって「心」の基底であり、本源的本来性における「心」そのものだということ。つまり意識(と存在)の究極的原点である。

つまり、「無心」と「有心」とが互いにまったく同義的であり得るような堺位が、ここに成立している。


『バガヴァド・ギーター』の認識の三段階説それ自体である。
すなわち「純質的(サーツトヴィカ)」認識、「激質的(ラージャサ)」認識、「闇質的(ターマサ)」認識。
第一は全存在界を究極的一者性において眺める純粋叡智の煌々たる光、第二は現象的多者の間に動揺ただならぬ意識、第三は愛憎に縛られた沈重な意識。

「純質的(サーツトヴィカ)」認識⇔「無心」的
「激質的(ラージャサ)」認識⇔「有心」的
「闇質的(ターマサ)」認識⇔「執心」的

言語アラヤ識。内的言語の意味 種子(ビーシャ)の場所。イマージュの作用。

惑庵の「胡子無鬚」。
胡子(西方の異国インドから見た人)すなわち達磨、に鬚がない、ただそれだけのことだが(『無門関』に収められて第四則をなす)、我々の見慣れた達磨の絵はきまって濃い鬚を生やしているが、彼の顔には鬚がない、と惑庵は言う。
有鬚でありながら、無鬚。分節と無分節の二重写し。
「胡子、甚(なん)に因ってか鬚無き」と惑庵は問う。
現に鬚が生えているのに、一体どうして一本も鬚がないのだろう。と。


円悟克勤禅師曰く、「一塵飛んで天を翳らせ、一芥墜ちて地を覆う。一華開いて仏を見、一葉落ちて秋を知る。物物頭頭に明明歴歴たり」
すなわち、無分節を通して、すべてがすべてに内含されているという禅の分節的存在了解を指している。


道元的、水の「本質」。
水は「本質」上、流れるものである「しかあるに、人間の水を見るに、流注してとどまらざるとみる一途あり」。
「本質」的にただ低所に向かって流れるだけ、と見るのは、分節(Ⅰ)の次元はもとより、水の全貌とは程遠く、偏った見方にすぎない。有「本質」的に分節された水(分節Ⅰの次元で成立する水)でも、地中を流通し、空を流通し、上に流れ、下に流れ、川となり、深い淵となり、天に昇っては雲となり、下っては流れを止めてよどみもする。
分節(Ⅱ)の次元では、水は窮極的には無分節者そのものである。
無分節者(非水)が全体的に、全エネルギーを挙げて、自己を水として分節する。
全存在が水。「水」という語が有「本質」的に指示するような一つの特殊な物質的「元素」ではない。
「水のいたらざるところあるといふは、小乗声聞教なり。あるひは外道の邪教なり。水は火焔裏にもいたるなり。心念思量分別裏にもいたるなり。覚知仏性裏にもいたるなり。」「一切衆生、悉有仏性」という根本命題の、これが存在論的意味である。
ただ一滴の水の中にも無量の仏国土が現成する、ともいわれる。
水すなわち仏土。
水の所在ははじめから過去、現在、未来の別を超越し、どの特定の世界にも関わりない。
しかしそれでも、水は水として現成する、それが存在の窮極的真実なのである。
仏祖のいたるところには、水かならずいたる。
水いたるところ、仏祖かならず現成するなり。
(水現成の公案)


イマージュ体験の主体は、「魂(こん)」
元来、人間の肉体の中には2つの違った魂が住む。肉体の中に幽閉された「魂」は不安定で落ち着かず、機会があれば「魄」との結合を解き、または「魄」をともなったまま肉体を抜けようとする。

「魂」⇔陽性で天に属し人体に宿っては人の霊性を代表する。死すれば天に登り。
「魄」⇔陰の性で、もともと地に属し、人体にあってはその身体的、物質的側面を司る。死すれば地に帰り。

「魂」を遊ばせることこそ詩的創造の源泉であるが、それはまた、ごく自然に展開して神話となる。

神話こそ、シャマン的体験の本来の言語的展開の場所。
by akikomichi | 2015-01-29 23:38 | 日記 | Comments(0)