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『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫 下條正男著

 『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫 下條正男著を読み終える。

 わかりにくい日韓のやり取りを、著者なりの理解した道筋で論証した書である。
 日本人も韓国人も他の国の人も読むとある程度、理解が進むと思われる。
 
 歴史認識が、事実を逸脱しすぎる面を正すことが必要なことは言うまでもないが、偏った研究ばかりの中、日本は冷静になってことのなりゆきを丹念に世界に伝えてくために、今からでも遅くはないので研究をさらに深め、理不尽な韓国の主張を覆す必要がある。

 1693(元禄6)年4月18日の午後2時、安龍福と朴於屯を乗せた大谷家の二百石積船は隠岐島に向け、鬱陵島を出帆した。後年、朴於屯は隠岐島に連れ去られる途次の航海について、「隠岐島に着くまでひどい船酔いに苦しんだ」という証言を残している。ともあれ、二人を乗せた船が隠岐島の福浦に着いたのは二十日だった。

安龍福の持っていた腰牌の裏には「庚午」=西暦1690年、「釜山佐自川一里/第十四統三戸」=釜山の佐自川一里が住所で水軍萬戸営に所属と記されており、表には「東莱(とんね)/私奴、用卜(よんぼく)、年三十三」=出身地は東莱、本名は用卜、私奴(賤民)とあった。

安龍福が日本語を話せたというのは、近くに対馬藩の出先機関である倭館が置かれているので、その倭館との関係が考えられるが、日本に密入国した犯罪人であり、その当時国を代表するような身分ではなく、私奴(賤民)であったということで、日本と交渉する権限も持っていなかったということは重要である。
 

 その後、鳥取藩は江戸幕府から指示を受け、朝鮮人は以後、竹島(鬱陵島)には渡海しないように厳しく伝え、長崎に護送せよ、というものだった。

 対馬藩は越境侵犯の質人として扱った。『竹嶋紀事』によると、対馬藩ではすでに1693(元禄六)年、五月十三日、この事件につき老中土屋相模守の指示を受けていた。二人を長崎で引き取って朝鮮に送還し、朝鮮漁民の越境を朝鮮政府に抗議する、というものであった。

朝鮮国慶尚道の内、釜山浦の安ヨクホキ(安龍福)、蔚山の朴トラヒ(朴於屯)は、竹嶋(鬱陵島)で、「あわび、わかめかせぎ」をするためとしていた。

対馬藩は安龍福の証言に基づいて、朝鮮漁民の越境行為を朝鮮に抗議する文案を練り、「国禁を顧みず」、朝鮮の「漁民四拾余口」がその当時の日本が竹島と呼んでいた韓国名鬱陵島で密かに「漁採をなし」ていたとしたためられてた。


〜続く〜
by akikomichi | 2012-12-01 00:15 | 日記 | Comments(0)