『オウムと私』林郁夫著

『オウムと私』林郁夫著を読み終わる。

一人のその中に入り込んでいた人の目から見たオウム。
映像だけでは伝わらない、芸術では伝わらないものが淡々と書かれていた。
小説よりも小説として読んでいるようで、ポアと言う言葉の軽やかさとは真逆の重苦しさ。

この世は偽物であるか、本物であるか等で推し量れるものではないことをいやがおうにもつきつけられる。

人が死んだ。それが現実であった。

その内的・外的体験をしたものの言葉によって、言い訳はあるかもしれないが、意思と行動の跡を辿ること、そこまでに到る流れを辿ることで、ぼんやりとしていたものの点が幾つか付き、線で囲い込み、やじるしをつけていくことができるようになっていく。
思考と行動が同じところで合わさって、はじめて意味が分かっていった。

宗教に限らず、組織になっていくこととは、指示系統、意思伝達、支えている信条をある意味整えていくことであり、それが行き渡らないとほころびができていく様を見て、又別の組織においても同じことを繰り返されていることを思う。

国単位であるか、宗教理念単位であるか、民族単位であるか、思想信条単位であるか、その重なり合いであるかにしろ、そこでいきたいという人がいる限り、その組織は続いていく。

宗教階級のはっきりした、役割分担された、意味つけされた力関係はいじめとはいわないが、ポアされたものは、明らかにその場にはいらないもの、いては邪魔なものであり、村井は松本が死ねと云えれば死ぬだろうと林が云っていたが、そのまま学校組織の中で逃げられないところにいた、飛び降りたある中学生の死にも重なる。

中学生はお金を要求されたりしたということで、見えにくい力関係とお金信仰が蔓延っていたところには、死が待っていた。


オウムに思想信条をその内部で成就しようとしていたものがいたのは確かであろうが、この国を司っていく為に、小さなオウム王国を作って、松本智津夫の理想を実現する為にポアすることで余計なものを、邪魔なものを排除していった。


また、憚り乍ら、松本や林は在日の方で国籍は日本であるのかも分からないが、その組織の序列にそういった要素を持ち込んではいなかったかも気になった。

迫害されたといいながら、その内部において、宗教階級社会的な場に於いて、民族的排除がなかったのか。も。(それは創価学会等にも問いたいところであるが)。

村井は松本と一緒にすべてを知っていたから殺されたと言う。

オウムは松本の生い立ちに関しても色々云われているが、朝鮮半島とも繋がりがあったと思われる発言もなきにしもあらずなので、今の日本で行っている創価学会等の放送番組や韓国等では韓国系ヨイド基督教の放送番組等もあるが、露西亜でオウムの放送番組を持っていたことを鑑みて宗教と政治の関わり、信者のお金をそこにつぎ込んでいたことも含めて、外国との接点等もすべてを含めて云わなければ、世界や日本どころか、信者すらも救われないであろう。

もうひとつ、気になったのが、阿含経とダライラマと基督教の世界宗教会議的繋がりである。

阿含経にも触れていた林によると、テレビ番組などでも紹介されるようになって、宗教法人となってから方向性を変えていったというようなことに疑問を持っていたということであるが、問題に繋がっていく宗教法人の優遇等措置等を問い直す時期に来ていると思われる。


松本の内外部で起こっていたことをそのまま伝えることこそが、今の日本で起こっていること、これからの日本を世界をどうしていくかの、なにかしらの判断をしていく際の手だてとなり得る。

武器調達の径路。もそこいらに集約され、村井殺害の大本と思われ、逃走していた信者も只逃げていた訳でもなく、そこいらの怖さがあったのではないかとも思われ、さらなる真相解明を待つ。
[PR]
by akikomichi | 2012-07-18 13:45 | 日記 | Comments(0)